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教会でこそまともな議論を!(総督)

 日本の教会は議論がヘタクソである。いや教会に限らず、「和」を美徳とし、協調性を重んじる日本の学校教育を受け、過度な同調圧力にさらされてきた弊害なのかもしれないが、この国で会議と呼ばれるものの半分以上は不毛だと言っても過言ではない。

 対等な立場でクリティカルな意見を交わし、論理的思考で結論を導き出す訓練ができていないからか、総じて議論はかみ合わず、ただ時間だけが過ぎていく。人間の能力的に、集中力を保って会議ができるのはせいぜい2時間。礼拝後の会議が夜まで及び、家族からの冷たい視線にさらされているという役員の嘆きを聞いたのも1度や2度ではない。

 あるいは逆に、はじめから決められた「仲間内」のメンバーで、決められた形式的な質疑しか行われず、すでに結論が先にあり、予定調和的で議論にすらならないというケースもある。ほぼ同じ立場の固定メンバーが何度集まっても、議論は深まるはずがない。会議だけでなく、キリスト教系のシンポジウムでよく目にする「あるある」の一つである。

 「質問はありますか?」という司会者の問いかけに場内がシーン……というのも「シンポジウムあるある」。「そもそも何を質問していいか分からない」とか「あえて挙手して公衆の面前で聞くほどのことでも……」とか、「質問に値するような内容ではなかった」とか、聴衆の心情はさまざまだろうが、ある種いたたまれない空気をどう打破できるかは、司会者の力量が試されるところ。ここがうまく機能しないと、せっかくのディスカッションもただの言いっ放しでグダグダになる。

 やおら手が上がったと思いきや、長年その会合の中で君臨してきた重鎮が、本筋とはまったく関係のない自説を延々と垂れ流し始めたりする。たまらず司会者が「意見ではなく質問を……」とか「発言は手短に……」などと割って入ろうが物ともせず、独演会は当分続く。その場にいる誰もが「早く終われ」と心の中で叫んでいるにもかかわらず、大先輩の機嫌を損ねるわけにもいかず、角が立つのを避けてじっと時間が経つのを待つ。およそ教派を超えて共通する教会関係の「総会あるある」「シンポあるある」ではないか。

 かと思えば、口汚い罵倒の応酬が繰り広げられるような総会や、司会者自身がしゃべり過ぎるという最悪の事例も、残念ながらなくはない。かつて歴史上の教会会議でも、こんな惨状が繰り広げられてきたのだろうか。

 まずは各々が自身の役割をわきまえ、議論の流れをふまえて主体的に参与し、時間は守る。社会的な地位や名誉にとらわれず、「王様は裸だ」と言う。「分断と対立」の時代にあって、キリスト者の集う教会でこそ、せめて、まともな議論をしようではないか。

(2016年6月25日付「キリスト新聞」掲載)

【総督】名前不明 キョウカイジャーを統括する司令塔。「神の国」建設に寄与するため、あらゆる予定調和を打ち壊し、業界の常識を覆そうと目論む野心家。地上では仮の姿でキリスト教メディアに携わる。サブカル好きの中二病。炎上体質。武器:督促メール/必殺技:連投ツイート/弱点:カマドウマ(便所コオロギ)。

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