見出し画像

震災で問われたもの~キリスト教メディアの視点から(2) 「トラクト」に見る信じる者の欺瞞

「中外日報」2014年7月23日~8月8日に寄稿した連載全6回。

振りかざされる律法主義

 キリスト教の課題を考えるにあたって、一つの事例を紹介したい。

 それは、被災地で大量に配られたトラクト(頒布用の小冊子)の内容である。ところどころ聖書を引用しながら、キリスト教の神理解を説くもので、内容は決して間違ってはいない。軽々に天災を「天罰」と言ってみたり、強引に「悔い改め」を迫ったりもしていない。

 しかし、よくよく読んでみると、いくつか気になる点がある。あるトラクトは、ヨハネによる福音書(14章1~3節)を引用し、「天国はこの世の悲しみをはるかに超える、表現することのできないほどの喜びと平安に満ちているのです」と断言した上で、「私たちの人生では様々な悲劇が襲ってきます。……しかし、その中でゆるがない平安を持つためには、何よりも、与えられているキリストの愛とその救いを自分のものとすることです。そこに永遠に至る慰めと平安と安心の祝福があるのです」と結論付ける。

 「信じる者」にとっては確かにそうかもしれないが、あたかも「あなたが経験している悲しみなど天国に行けばとるに足らず、イエスを信じさえすればどんな逆境でも安心していられる」と説き伏せているようだ。

 別のトラクトは、フィリピの信徒への手紙(4章11~13節)を引き合いに、「神のご計画は、すべての造られたものが新しくなることです。そうすることでこの世界が二度と災害や事故などで苦しまないようにするためです」と説く。

 私の理解では、「災害や事故などで」二度と苦しまないような世界は、終末でもない限り決して訪れない。残念ながら、地震や事故はこれからも起こり続ける。もちろん、これらの印刷物を契機に聖書を読む人や、信仰に導かれる人がいる可能性を否定するものではない。しかし、両者に共通しているのはすでに「救われている」者によって書かれた「上から目線」である。

 体裁としては、被災者に寄り添うような素振りを見せているものの、やはり論理展開としては弱みにつけ込んだマインド・コントロールに限りなく近い。非常時にこそ、聖書を通してみ言葉に聞きたいという信徒の欲求は理解するが、震災前まで「信じていなかった者」に向けて限定的にメッセージを発信するのは姑息ではないか。

 時に、聖書を引用しながら人を説き伏せようとするキリスト者の言動に触れることがある。そこで流用される聖句はもはや神のみ言葉ではなく、個人の主義主張を補填し、相手を論破する道具でしかない。

 キリスト教の「正しさ」は、聖書によってのみ補完されるものではない。人を殺していけない理由は「十戒に書いてあるから」だけではない。むしろ避けるべきは、コンテクストを無視し、それらを金科玉条のように振りかざす律法主義である。

 被災地支援における宣教をめぐっては、さまざまな議論がなされてきた。少なくとも私は一人の信仰者として、財産、家族、仕事をなくし、故郷を離れなければならなくなった人々を前に、「神に帰れ」とはとうてい言えない。

(「中外日報」2014年7月25日付)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?