神はそんなに饒舌か(総督)
夏休み? なにそれおいしいの? リオ五輪のメダルラッシュに日本中が沸こうが、SMAP解散で芸能界に激震が走ろうが、ゴジラが東京湾に出没しようが……、キョウカイジャーには休みなどない。今週も、「神の国」実現のために邁進あるのみだ。
ところで、教会には世間一般では通用しない独特の言い回しがある。日常的に接している信者にとっては、何が通じて何が通じないのか実のところ定かではない。地方在住者が、方言か標準語かを見極めるのが難しいのと似ている。「福音」「救い」「聖霊」などは分かりやすい例だろうが、「兄弟姉妹」「交わり」「証し」など、異なる意味で一般的にも使われている場合もあるので余計ややこしい。
「み言葉を聞く」は完全に教会でしか使わない表現だろう。聖書に書かれたのは神の「言葉」であり、そこに込められた福音のメッセージを礼拝で会衆に取り次ぐのが教職者の役目とされている教会では、当然のように使われている。
しかし、よくよく考えてみれば、聞いているのは牧師や神父の声であって、神の「肉声」ではない。信者以外には不思議に思われるだろうが、特殊な神秘体験は別として、実際に具体的な「音声」として神の言葉を聞くことは、どんなに敬虔であってもおそらくほとんどないに等しい。ここで言う「み言葉」とは、実体のある神が21世紀の「この世」に顕現し、音波に乗せて発声することを意味するのではないというのが大方の共通認識だ。
無論、「言葉」としての聖書を記したのは預言者であり、弟子たちであり、初代教会から連綿と続く信仰の継承者たちである。そこに神の「み手が働いていた」ことは言うまでもない。
しかし、「み言葉を聞いた」「み旨が示された」とやたら言いたがる者がいる。もちろん、実際に「聞いた」わけではなく、目の前の事象をすべて「神の意志」と信じて疑わない熱心な信仰故なのだろうが、この手合いには十分に注意が必要だ。「聞こえた」のは、単に自らの願望ではないのか。「示された」のは、不遜で自分勝手な虚像ではないのか。逆に思いどおりにならなかったことを、すべて「み心ではなかった」と結論づけて納得しようとしているだけではないのか。信仰や祈りを、安易な現実逃避の手段にしてはいないか。
神を意のままに操ろうとする人々は、いったい何様だろうか。神はそんなに饒舌ではないし、おそらく、神のみ心は個々人の下心なんかをはるかに凌駕する。結果を都合よく解釈し、「祈りが聞かれた」「聞かれなかった」と右往左往することは、「その名をみだりに唱えるな」と戒めた神が忌避する人間の愚かさではないか。
神は世を愛された。その上でなお、自由意思を与えられた人類はこう問われている。「君らも好きにしろ」と。
(2016年9月3日付「キリスト新聞」掲載)
【総督】名前不明 キョウカイジャーを統括する司令塔。「神の国」建設に寄与するため、あらゆる予定調和を打ち壊し、業界の常識を覆そうと目論む野心家。地上では仮の姿でキリスト教メディアに携わる。サブカル好きの中二病。炎上体質。武器:督促メール/必殺技:連投ツイート/弱点:カマドウマ(便所コオロギ)。
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