推しが尊い~キリストオタクの正しい愛し方

2020年11月29日、日本バプテスト連盟東八幡キリスト教会での礼拝メッセージ(宣教)。聖書箇所は新約聖書コリントの信徒への手紙1章10~20節。

私の所属教派では原則的に信徒が礼拝で「説教」をすることはないので、よほどのことがない限りお断りしているのですが、敬愛する 奥田知志さんからのお願いということで、満を持してお引き受けいたしました。しかも、「あの」東八幡キリスト教会のチャンネルで中継されたうえ録画が半永久的?に残るという重圧。当初は「非公開」に…とも思いましたが、私の日頃の言動からすると自己矛盾も甚だしいと思い直し、まさに生き恥をさらすことといたしました。「仕事」「召命」とはいえ、毎週このプレッシャーに耐え続ける牧師たち、マジぱねえ。

結果、いつかこのテーマで話をしたいと願っていたことが思いもよらぬ形で実現することに。そして、書籍自体は紹介しなかったもののメッセージを作る上で強くインスパイアされた1冊がJiniさんの『好きなものを「推す」だけ。~共感される文章術』(KADOKAWA)。クリスチャン(宗教二世)であることと「隠れオタ」であることを公言できず苦しんでいた時代を思い返しながら、ようやく過去の自分を全肯定できた気がして、メッセージを語り終えてから年甲斐もなく密かに涙ぐんでました(無事に重責を果たすことができた安堵感もあり)。

唯一の心残りは、せっかく直近で「贖罪論」をめぐる前振りがあったにもかかわらず「私は奥田につく」「石橋につく」…の件に触れるのをすっかり失念してしまったこと。悔しすぎる😢

「まだインターネットが一部にしか普及せず、テレビも新聞もメインカルチャーの時代にあって、そこで築かれた流行を享受できないというのは、少なくとも若者のレベルでは『不能』の烙印を押されるほどの失態でした。僕はそれが、悔しくて仕方なかった。自分が好きなものを周囲が認めないことが悔しかったのではありません。ただ好きなものを、好きだといえないことが、苦しく、つらく、耐えがたかった。性、人種、宗教、そうしたマイノリティの人たちには温いと怒られるかもしれないけど、僕にとっては好きなことを好きといえず、自分の好きを曲げないと生きられないことが、本気で一番苦しかったのです」(『好きなものを「推す」だけ。共感される文章術』より)

自分の「好き」を教会や家庭で肯定してもらえなかった(決して否定はされなかったが…)ことで、知らず知らずのうちに傷ついていたんだなぁと、この本を読んで初めて自覚できました。今なお迫害(オタバレ)の危険に怯えながら教会で肩身の狭いを思いを抱える全国のオタクリに捧げます。胸を張って堂々と、「誰が何と言おうと『推しが尊い!』」と高らかに宣言できるオタクであり続けましょう!!

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