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新世代エヴァンジェリストの憂鬱(3)教会/業界の憂鬱

『若者とキリスト教』(2014年、キリスト新聞社)より抜粋。

発信力の欠如

 牧師個人が抱える「憂鬱」を見てきましたが、次により根本的なキリスト教「業界」全体の抱える課題を考えてみたいと思います。キリスト教の全教派・団体に共通する課題として、発信力に乏しさをまず挙げたいと思います。「見えざる奉仕」を美徳として自己主張を控えるあまり、あまりに奥ゆかしすぎる。むしろ、「善いことをやっていれば、いずれ伝わる」「真理はきっと伝わる」「わかる人にはわかる(わかればいい)」というあきらめに似たぼやきを何度耳にしたかわかりません。出版界で言えば、「良い本ほど売れない」「人手とお金がないから仕方がない」などなど。しかし、本当に打つ手はないのでしょうか?

 AERA元編集長の尾木和晴は、雑誌『Ministry』(キリスト新聞社)のインタビューに答えて次のように述べています。

 たとえば、私の家の近くにも教会があるわけですが、その牧師さんが発信しないので、どんな教会か分からない。どんな牧師か分かれば、日曜日にお説教を聞きに行こうかなと思うかもしれない。「発信力」が弱いんです。内側では努力されていて、立派な先生方もいらっしゃるんでしょうけど、それが分かりづらい。「発信力」を身につけるためには、外から人を招き入れることもやらないとダメなんです。内輪だけで考えていてもたかが知れている。講演会なんかも、いつもキリスト教の枠内でしかやってないじゃないですか。それを外でやってみるとか……。
 ふたりの娘を意識的にキリスト教主義の学校に通わせています。公立と私立の決定的な差は、宗教教育ができるかどうかだと思ってるんです。キリスト教は聖書があるので、教育の方法もある程度確立されている。第三者という目を常に持ったほうがいいという教育方針のもとに通わせています。
 第3(2009年秋)号「ハタから見たキリスト教」

 「新来者」としてさまざまな教派の100を超える教会を訪ねてきた八木谷涼子は、名刺を持たない牧師がいることに驚いたと言います。「謙虚さの表れかもしれないが、名刺も持たずにどうやって伝道するのか」と。以下は本人のブログ「くりホン キリスト教教派の森」からの引用です。

 わたしが牧師や神父さんにぜひともお願いしたいのは、名刺をつくっていただくことです。いらっしゃるんですよね、名刺は持ってない、自分は持たない主義だ、という方が。(とくに、地方在住の方に多いように思います)そんなこと言わないで、作ってください。お願いします。教会の住所を書いた名刺サイズのカードでも結構です。(プリンタがあれば、パソコンで簡単に作れます)あとで連絡したいとか、本を送りたいというようなときに、いちいち『キリスト教年鑑』や週報などで住所を探すのは大変だったりしますので。(「『万年教会新来者』の声」)

 ちなみに2013年11月に刊行された『もっと教会を行きやすくする本』(キリスト新聞社)は、教会の実践的なマネジメント、コンサルティングのためにぜひ読んでいただきたい手引書です。

広報力の欠如

 発信力に続き、教会の課題を論じるうえで、「広告・宣伝」と「広報・PR」の違いに注目したいと思います。「広告・宣伝」とは、メディア(新聞・雑誌・テレビ・ラジオ・ウェブなど)のスペースを購入し、自分たちの「伝えたい」情報を発信すること。一方、「広報・PR」は、メディアの記者・編集者に自分たちの(他者が聞きたいと思っているであろう)情報を伝え、メディアで取り上げてもらえるよう働きかけること。メディアが情報の価値を認めた場合にのみ、記事や番組などで紹介されます。「自分の都合のいいように伝えてもらえるとは限らない」というのが大きな違いです。

 2009年に非公式で立ち上げられたNHK広報局のツイッターアカウントが話題になりました。いまや58万人のフォロワーを持つ「軟式アカウントの老舗」です。これまで、作ったものを「一方的に知らせる」という宣伝手法から、「好きになってもらう」という関係づくりにシフトした結果、爆発的な人気を得ました。ポイントは、NHKの「お硬い」イメージと「ゆるい」ツイート(つぶやき)とのギャップです。

 みんなの心の中にある「NHK」のイメージをよりよいものに変えること。それが広報という仕事です。それは宣伝や広告に比べると、とても地味で時間のかかる作業です。……2年間ツイッターとつき合ったことで、少しずつわかってきたことがありました。それは、「NHK」のイメージを変えたいのなら、「NHK」自身が持っている「視聴者」や「お客様」のイメージを、変えなければならないということです。自分を知ってもらうためには、まず相手を知らなきゃね。好きになって欲しいのなら、こっちだって相手のことをもっともっと好きにならなきゃね。

 「みんながいる場所に行って、みんなと同じ場所に立って、出来るだけみんなと同じ視点で話をしなきゃ」 私はNHK_PRが、NHKという建物の玄関から一歩だけ外に出たところに立っているような、そんなイメージを思い浮かべていました。NHKとみんなの間に立って、それぞれの話を相手に伝える仲介役、そんなイメージを思い浮かべていました。(NHK_PR1号『中の人などいない――@NHK広報のツイートはなぜユルい?』新潮社)

 「玄関から一歩だけ外に出たところ」という表現が、広報の役割を的確に言い表しています。マーケティングの世界では、「知りたい」という願望が「買う」という行動につながるまでのプロセスに関して、さまざまな分析がなされてきました。「買いたい」に応えるのが「広告」なら、「知りたい」に応えるのが「広報」と言えるかもしれません。

 ひるがえって、教会/業界はどうか。これまで教会が熱心に力を注いできた伝道・宣教や広報活動は、「広告・宣伝」であり、本来の「広報・PR」ではなかったように思います。「信じたい」という欲求は歓迎して受け入れてきたものの、「知りたい」という欲求には十分応え切れてこなかったのではないか。むしろ「信じるつもりはないが教えてほしい」という願いを、言外に拒絶してきた。もちろん、「知る」と「信じる」の境界は曖昧でもあります。「知りたい」が「信じたい」に移行することは十分にあり得るし、逆に「知りたい」を通り越して「信じたい」というケースもないわけではありません。教会は、洗礼を受ける見込みがあるかどうかで「求道者」を区別してはいないでしょうか。教会を維持するために信者を増やすという、下心丸見えの利己的で狭量な「伝道観」を、そろそろ見直してもいいのではないでしょうか。

 宗教を信じる信仰者が「客観的」な情報を提供するということが可能かどうかはさておき、教会外で求められているのは、「いかにキリスト教が有益か」という「信じる」ための処方箋ではなく、「キリスト教とは何か」という「知る」ための基礎知識なのではないでしょうか。これは、キリスト教出版界がよくよく検討すべき問題でもあります。

翻訳力の欠如

 同志社大学で学び、数々の著作で神学の有用性を説いてきた元外交官の佐藤優は『神学部とは何か』(新教出版社)の中で、「右」から「左」までさまざまな立場の論壇誌に執筆していることを紹介し、次のように述べています。

 しかし、私の中のインテグリティはまったく崩れていない。それは、一つの日本語を他の言語に翻訳できるのと同じで、私が全ての話の根本として考えていること、すなわち「神がそのひとり子をこの世に送ってきた。そしてそれがわれわれの救済の根拠である」ということを、キリスト教徒でない人に分かる言語と論理で説明しているという、非常に単純なことをやっているつもりだからだ。……左側の論理で行き詰まっていることがある場合には、左側の言語でないとそれを崩すことはできない。右側の言論の行き詰まりは、右側の論理に乗っかって崩すしかない。おそらく、イエスが2千年前にやろうとしていたのもそういうことではないかと思う。

 さらに、イエスが「農民には農民の、律法学者には律法学者の、ローマ帝国の官僚には官僚の言葉で語った」ように、その関係の類比をもってさまざまな問題を考えることを「思考様式の翻訳」と呼んでいます。彼の著作、特に神学関連の書物が優れている所以は、その翻訳力にあると思います。決して身内にしか通じない「業界用語」ではなく、伝わる言葉で伝える努力。教会/業界にこそ、それが求められているはずです。


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