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教会と共産党との類似性

(2010年10月6日「松ちゃんの教室」ブログ記事再掲)

Ministry」をご愛読いただいているかわむかい様のブログを通して、こんな記事を見つけました。
大都会の小さなマンション日本共産党と教会

元になっているのは浅井基文氏(広島市立大広島平和研究所所長)による「21世紀の日本と国際社会」のこちらのコラム。

浅井氏の指摘する党自身が取り組むべき諸課題について、クリスチャンにも「同じ病魔が潜んで」おり、共通の批判があてはまるという。

例えば……

「国民・人びと(未信者)の目線に立って、一緒に考え、話し合い、相手の気持ち、考え、意見を謙虚に聞いて双方向の話し合い(交わり)を心がけるという姿勢のなさ」

「要するに、『共産党(教会)こそが真理を代表するんだ』という従来の立場にはいささかの変わりもないと感じとるしかない。これがよく共産党(教会)について言われる『独善的な党(教会)』というイメージにつながる」

「国民(未信者)は働きかけ(伝道)の対象であって、共産党(教会)が無限の(奉仕の)学びの材料をくみ取る源泉である尊敬するべき『他者』として認識されていない」

「ここでも中央(長老)と現場(兄弟姉妹)との双方向の意思疎通(交わり)が欠落しているのではないでしょうか。それは、すでに述べた「国民が主人公」(万人祭司)の形骸化ということにつながっていると思います」

*太字は筆者

……などなど。両者の類似性については、私も大学時代から抱いていた印象だったので、まさにわが意を得たり。

構成員の高齢化、硬直化、形骸化、非合理性、独善的排他性、視野狭窄、理論と実践の乖離――共に克服すべき課題は無数にあります。

そしてこれらを乗り越えるためには、身近な「ハタから」の指摘を受け止める謙虚さと、「ウチから」の自己批判自浄能力が不可欠です。

ついでながら、今から10年以上前に出された本から、同様の指摘をご紹介。筆者の言う「隣の共産党員」は、いわば「町の教会員」にあたります。

金井次郎・共産党“私設”応援団『私設応援団が書く――隣の共産党員』(データハウス/1999・10)

 党員ではないけれども、共産党系大衆運動やそのほかの運動でがんばっている、そして共産党や自分たちの運動仲間を裏切らない人たち、さらには、共産党の色はないけれども、共産党の運動を妨害せず、客観的には共産党の運動と呼応したり、大衆的広がりでは融合しているとも思える運動の場で、先進的な役割を果たしている人たちも、やはり前衛と呼ぶべきではないでしょうか。……自分たちだけが前衛だから、大衆は党の方針に従えという運動では、本当の前衛とはいえない

 テレビなどのメディアの役割を理解できないと、これからの共産党員はやっていけないと思いますね。……はっきりと申し上げて、“金太郎飴”の人たちとのカンパニア活動や会議、会議で疲れている、テレビなんか見る暇がないと公言する「隣の共産党員」の人たちより、テレビの政治バトルに声援を送る零細庶民の無党派の方が、はるかに高度の政治意識を誘発されていますね。もしかしたら、こういう人たちこそ、ホンモノの“影の共産党”になる可能性があるのかもしれない。メディアの時代は、口コミ、パーソナル・コミュニケーションの時代でもあります。

 要するに、共産党とは党中央のことでしかない。これが、「隣の共産党」の周辺の真面目な市民の感覚です。地域の共産党が住民から、政治勢力として認知されていない。これらの原因は、それぞれの部署にいる職業的な党員、つまり共産党の地域テクノクラート(専門分野の管理者)かその候補にあるのではなかろうか。

 党に対する古いイメージで生きている人たちには、こういう古さでしか、共産党の価値観を表現できないんでしょうね。しかし、迷い犬が入って来れるほど、共産党の建物は開放的にしてほしいと思う人は多いでしょうね。これから、……頼りになる共産党へ相談したい人が、増えていくことは間違いないのです。ガラス張りで、役場のようにカウンターがあるところで、相談したい。そう思う人は少なくないはずだ。……地域の中にどっしりと、根をおろす。建物だって、同じです。敷居の低さ、透明性。こんなことを考えていい時代です。

 労組を含めた大衆運動で大切なことは、先進的な活動家が、どれだけ大衆になり切れるか、大衆の感覚や頭で状況判断できるかではないでしょうか。そこに党の方針が生かされるのであって、党があるから大衆が動くわけではないのです。つまり、優れた共産党員の大衆運動家とは大衆の感覚や頭で判断できる人だと思いますね。そういう人が多ければ、何かを決める時でも、「共産党」という派閥はいらないし、徒党を組む必要もないのです。

*太字は引用者

先のブログ同様、文中の用語を適宜翻訳しながら読んでみてください。

言うまでもなく、教会は政党や政治団体ではありませんし、伝道と大衆運動は本質的に異なります。必ずしもすべてがそのまま通じるとは思いません。しかし、自らを省みるヒントにはなるはずです。

ぜひ、この発想をお借りして『隣の教会員』なる本を出せないかと、密かに画策しております。その節は、「私設応援団」のみなさま、よろしくお願いいたします。

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