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「聖」か「俗」かの二元論を超えて

(2017年6月5日 Facebookへの投稿記事より)

代表取締役になった立場でこんなこと言うのも何だが、ウチの会社とかウチの教会とか、所属教派とか出身校とか、果ては自分の育ったクニとか、あらゆる組織、団体、枠組みに対する執着がほとんどない。時折、「かくあるべし」の呪縛から逃れられないガチ勢の不自由さに接して悲しくなることがままある。

それらの組織、団体に愛着を持つことまで否定はしないが、他を否定してまでも自らが属する枠組みの優位性を誇示し、「ここでなければ」「ここしかない」と固執することの不健全さ、息苦しさはないか。「ここでなくても」という余裕をどこかに温存しておくことが、危機を乗り切るための強さになり得る。

自分の経験上でもそうだが、無知な時ほど「白」か「黒」かをはっきりさせたがる。しかし、2色しかない世界で生きるのはキツい。「白」でも「黒」でもない「グレー」があることを知ってからは生きるのが楽になる。しかも、セクシャリティ同様、どこまで行ってもグラデーションであることの方が多い。

「黒寄りの白」もあれば「白寄りの黒」もある。時には「黒」一色に染まることもあれば、気まぐれで「白」っぽくなることだってある。時には文字通り「白黒はっきり」させなきゃいけないことも当然ある。でも、どこかで「グレー」を選び取る余地も残しておかなきゃ。だって、(欠けの多い)人間だもの。

とりわけ義務教育下の9年間は家と学校との往復のみで、世界が狭くなりがち。生きる場所は「ここしかない」と思い込まず、「ここでなくても」と思えるような「第三の道」を社会が用意することで、どれだけの若い魂が救われることか。逆に、彼らを「白」か「黒」かという選択に追い込んではいまいか。

学校という狭い社会には「物差し」が少ない。「スクールカースト」という尺度でのみ個々人の評価が決まってしまう傾向がある。そこに、まったく異なる基準の「物差し」を持ち込むことで、固定された価値基準をぶっ壊すことができる。それこそが家でも学校でもない教会などの存在が提供できる「第三の道」。

残念なことに世の中には「真面目」か「不真面目」かを明確に区別したがる人たちが一定数いて、彼らには「真面目に不真面目」とか「真剣にふざける」などという発想は理解できないらしい。でも、何が「真面目」で何が「不真面目」かなんて、いったい誰がどんな権威でもって客観的に判断できるの?

振り返れば自分も長く「かくあるべし」の呪縛にとらわれていた。そこから解放されるためには、やはり外界に触れて、今いるポジションが「one of them」に過ぎないこと、そこが「井の中」に過ぎないことを思い知るしかない。そして外を見聞きしたからといって今いる場を放棄する必要もない。

実は教会も学校と同じ「物差し」を使いがちで、「名のある学校」を卒業し「名のある企業」に勤め、クリスチャンと結婚して子どもを産んでクリスチャンホームを作り、子どもに洗礼を受けさせてこそ「証し」になる模範的な生き方という無言の圧力が少なからずある。中卒ニートの毒男などに居場所はない。

せっかく世俗の価値観から自由になれるはずの教会で、「無条件で愛されている」はずの子どもたちが、家や学校と同じ「物差し」ではかられ、受験、就職、結婚、受洗を勧められたとしたら…。それほど酷なことはない。教会の存在意義を疑われても文句言えないレベル。

何より解せないのは、旧来の「テキストを使って学ぶ聖書研究スタイル」とか「名のある先生の講演を拝聴すること」があたかも本来あるべき教会における「勉強」法のように語られること。「勉強」か「遊び」か、「教会」か「社会」か、「聖」か「俗」かなんてそもそも線引きできるわけがない。


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