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これ以上、教会員に隷属する「御用聞き」を増やしてもしょうがない。…は言い過ぎか?

(2018年1月31日 Facebookへの投稿に加筆)

「キリスト教系の団体・企業あるある」だが、せっかく使命感があってスキルも身に付けて将来有望と目されていた若手が「献身」して牧師を志すために辞めていってしまうというケース。いやいや、牧師だけが「献身」の手段ではない……。言い方は悪いが、「一教会の牧師なんかになったらもったいない!」と言いたくなる事例が多々。

こんなことを言ったら教会関係者に怒られるかもしれないが、安易に神学校へ……などと考えないでほしい。牧師にならなくても「宣教のわざに仕える」方法はいくらでもあるわけで、教会だけが「現場」ではない。文書伝道だってSNS宣教だって、立派な証しの手段になり得るし、信徒がみんな牧師になってしまったら教会は成り立たない。

むしろ専門職としての技術と知見を生かして教会「外」でバリバリ活躍しながら、教会を「内」から支えられる人材をこそ、熱心に育てなくては! もちろん牧師が尊い働きであることは間違いないが、業界全体のボトムアップを考えれば、いずれ閉鎖されると分かっているような教会に未来ある貴重な牧師を専従スタッフとして配属するのはコスパが悪すぎる!

すでに毎年の入学者が1人いるかいないかという瀬戸際の教派神学校がいくつもある中で、その維持になけなしの献金を費やすよりも他の有効な使い道がもっとあるはず。いずれ何らかの形で統廃合せざるを得ないのは自明なのだ。規模が小さくなったからこそできることもある。悲観ばかりしていても始まらない。

牧師の志願者が少なくて教会が困っていることは重々承知。でも、それはこれまで日本の教会が牧師依存体質から抜けられなかったことのツケでもあり、もっと自立した信徒を育てなければいけなかったと反省するしかない。そして、自立した信徒は、牧師になって「あがり」とするのではなく、信徒のままでも活躍してほしい。

信徒教育の世界では確かに、「献身(神学校への進学を決心)させたらいっちょあがり」的な傾向が強い。それは「洗礼さえ受けさせればいっちょあがり」的な思考にも通じる。だから「献身」や「受洗」が目的化してしまい、教会も神学校もその後のフォローをことごとく怠ってきた。その結果がこの惨状である。

かつて教員不足の時代に、消極的な動機から教職に就いた先生を「でもしか先生」と呼んだ。同様に、他にできることがないから、就職に失敗したからなどの理由で「献身」した「でもしか牧師」も正直いないとは言い切れない。一方、他の道を捨ててまで牧師を目指すのは崇高で美しい志だが、今一度考えてほしい。

キリスト新聞の座談会で「神学校に入ったのは〝逃げ〟だったんじゃないかと、入学してからもしばらく悩んだ」と打ち明けてくれた現役神学生がいたが、とてもまともな感覚だと感動したのを覚えている。「献身」や「召命」とは、それだけ重い事柄。誰もが軽々に口にできるものではない。

明確なビジョンと戦略があるなら、ぜひ牧師として旧態依然とした業界を「中から」変えてほしい。ただ、牧師になることでできなくなること(制約)の方が増えそうなら、やはり別の道で自身の賜物を最大限生かす選択肢を考えてほしいと思う。新卒で理想に燃えながら、結局、赴任した先の教会で横暴な信徒の「御用聞き」と化してしまっては本末転倒である。もはや1円の献金も、1人のマンパワーも無駄にできない窮地の今だからこそ!!


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