見出し画像

ブルーな女の子に「普通でいいんだよ」と言ってくれた映画

 午後の光が窓から差し込む教室で、彼氏のできた美人のクラスメートの横顔を遠目に見て、「ああ、少しでも可愛かったら自分に価値を感じられるのに」と思った。
 17歳の私は、ひどく落ち込んでいたと思う。アンニュイな青春だった。中学校まで成績はよかったけれど、進学校に進んだから高校では目立つ生徒ではない。中学まではスポーツも得意だったから人気者だったけれど、女子だけの進学校ではおしゃれな美人がスターだった。10人並みの容姿、10人並みの成績、恋に憧れていたけれど出会いもなく「予定」とは違う10代。私はこれからどうやって「自分を素敵だと思えばいいんだろう」。
 もともと本当の自信なんてない女の子。陽気な明るさもあり、小中学校時代は、成績が良くスポーツが得意で、学校のスターだと言うことで自分に自信を持っていた。でも相対的な自信というのは、学校やコミュニティや年齢やライフステージで簡単に変わる。17歳の私は、とにかく美人でもてて映画みたいな恋愛をたくさんしたかった。憧れはハリウッド映画。当時、80年代のスター、メグ・ライアンやブルック・シールズにも魅入られたけれど、むしろ学校に行きたくなくてサボって観ていたTVの午後の洋画劇場のグレース・ケリーやエリザベス・テーラーに圧倒された。将来のことなどなんとなくしか考えてない。マスコミの仕事がしたいなとぼんやり考えていたくらい。
 不幸だったわけではないが、アンニュイだった17歳の自分を思うと、なんだか可愛そうで抱きしめてあげてあげたくなる。今振り返ると若さの真っ只中で、それだけで弾けるように美しいのだと教えてあげたくなる。今では忘れかけているが、10代の頃の先の見えない不安、何者でもない自分、ぼんやりした夢はあっても目標を描けない自分、モチベーションが下がって勉強も十分していない自分、パートに出る親の目を盗んで学校をサボってT Vで映画を観ていた自分。

 夢見るようにロマンスものばかり観ていた私は、ある日、衝撃的な映画に出会った。ウディ・アレンの『アニー・ホール』。ウディ・アレンはちっともハンサムなんかじゃないのに目が離せなくて、恋人役のダイアン・キートンも素敵だったけど、これまで観たどのヒロインとも違った。男受けするドレスでパーファクトにヘアメイクアップしてるわけじゃなく、風変わりで好きな格好していて中身もそんな感じでそれが魅力的で。パーフェクトなセットの撮影はなくて、NYの街並みが綺麗じゃないところもひっくるめて情緒たっぷりに映し出される。ウディ演じるアルビーは、才能はあるけどハンサムじゃなくて、内向的で神経質、つまり欠点もいっぱいのリアルで普通の人。いわゆる女性にモテるタイプではないけど、おしゃれで深みがあって素敵だった。
  東京のベッドタウンで育った女子高生が、砂糖菓子のように完璧に作られたハリウッド映画に憧れすぎて自分がゴミみたいに見えて打ちのめされていた脳みそに、「リアル」な映画をぶち込んでくれたのがアレンだった。普通であるってことは、こんなに素敵なことなんだ。彼らは、明らかにパーフェクトではなくリアルで、そして欠点も含めて生きてる姿や、自分らしく工夫している着こなしが、魅力的だった。NYの街も、清濁合わせ飲んで息づく空気が信じられないくらい美しかった。

 ところで、#Me Too運動以後、ウディ・アレンの映画を賛美することはほぼタブーだろう。元パートナーのミア・ファローとの裁判では証拠不十分で訴追されることなく終了したにもかかわらず、アメリカ社会の中ではアレンはグレーとされてるのだろう。

 私に真実を知る由はなく、作品に罪はないかどうかにも明確な意見はない。ただ、10代後半と20代、アレンの全ての映画を観て、アニー・ホールを何十回と観てタフな青春をサバイブしたという事実は変わらない。普通でいいんだよ。人より特別に優れていなくても。誰でも、そのままで、一生懸命生きてるだけで価値があり素敵なのだということ。大人になればわかるけれど、17歳ではわからなかったことを教えてくれたことには、変わりはないのだった。
 30代になってNYに旅した私は、アレンがクラリネットを演奏しているクラブに言ってフロアマネージャーにファンレター(お礼の手紙)を渡してくれるように頼んだ。残念ながらその夜、アレンは現れなかったのだけれど。
 17歳の私、大丈夫だよ。その後、間も無く可愛いと言ってくれる人はたくさん現れるし、20代でやりがいある大好きな仕事につけるし、30代生まれてきてよかったと思わせてくれるパートーナーと子供に恵まれるし、40代で子供を信じられないほど愛し、君はそのままで素晴らしい価値があるんだよ、と毎日言い続けるママになるから。
 

#映画にまつわる思い出


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?