見出し画像

書かなかった返事  マカピーな日々#0215

マカピーです。

実家の改装で持ち帰ったマカピーの荷物に入っていた古い手紙で思い出したことがありました。


この紅茶の手紙に続いて、気になった手紙がもう一つありました。

マカピーはおそらくこの手紙には返事を書いていないと思うのです。

そして何故こんな手紙を保管していたのでしょうか?

手紙を読み返すと当時の事が蘇ってきました。

マカピーがマレイシアで青年海外協力隊員として活動していた村に、ある日フラフラと3人の日本人が現れマカピーの鶏小屋の前を歩いていたので声を掛けたんです。

「ここに日本人が訪れるとは珍しいですね」

「おお!びっくりした。鶏舎から日本語が飛び出すとは思いもよりませんでした」

網越しに話をつづけてもしかたないので、マカピーの住まいで彼らのお話を聞きました。

この3人は夫婦とその妻の姉の組み合わせでした。

旦那氏の研究らしくカダザン族の町の一つシクアティの市場(タムー)に行くと奥さんの具合が良くなくなり、途中で切り上げると、乗合いトラックが親切にもバンガオ村に連れてきたらしいのです。

我々日本人のところへ連れてゆけば何とかなると、乗り合いトラックの運転手、気のいいアチェンの気遣いだったのでしょう。

手紙を読みすすめると、マカピーはいろいろ彼らの世話を焼いたらしく感謝の言葉が連ねてありました。

マカピーが彼らに紹介した宿の事やその後に訪問したサバ紅茶工場でのことなどが書き連ねてあり、もっと調査をつづけたかったが時間切れで帰国しなければならないけれど、最後にルングス族を含む民族関連の資料を二部送ってくれとありました。

どうやらこの方は民俗学を専攻する大学の講師のようです。エスノロジーの好きなマカピーと気が合って、彼からそんな依頼を受けたのだと思うのです。

マカピーは民俗学調査研究のためにこの村に来たわけではありませんから、当時ルングス族に関する資料はほとんど持ち合わせていなかったので安請け合いできなかったはずです。

マレーシアは英国領だった時代に民俗学的な調査も行われていますが、第二次世界大戦では一時期日本が進駐していました。

英文資料はSabah Societyなどが保管しているでしょうが、日本語での現地の文献を調べるのであれば、やはり日本の方が条件が良かったはずです。

それでも現地での人脈を使えば自分の調査がはかどると考えたのでしょうか?1980年代後半の事ですからもう発信者も忘れているでしょうけど、当時は研究者同士はこうして情報共有をしていたのでしょうね。

もしかしたらマカピーは「資料に関しては期待に沿えず申し訳ない」と断りを返事していたのかなあ?

ルングス研究者の著書を教えたくらいはしたかな?

おそらく返事をしていないと思います。

当時は手紙の往復書簡で一か月もかかるアナログな世界だったんですね。

マカピーでした。

最後までお読みいただき感謝します。引き続きマカピー的史観をお読みいただければ嬉しいです。



もしもサポートいただければとても嬉しいです。そのサポートは感謝のバトンタッチとして使わせていただきます!