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We are all “human beings.”

“Human being” という英語の言葉をご存じでしょうか。 日本ではあまり浸透していないような気がしますが、今の日本人にこそ知ってもらいたい、人間を表現する言葉です。
 
この言葉に初めて出会ったときのことを、私は忘れられずに、強烈に覚えています。
 
留学目的でニューヨークに住み始めてまだ数か月。 大学に入学するための英語力が不足していたため、まずは大学付属の英語学校に通い始めていました。
 
私はその時もう30歳で、高校を卒業してからも英語に縁がなく10年以上経っていたので、勉強するのに苦労することは覚悟していました。 実際、レベル分けテストの結果は、8段階の下から3つめでした。 日本人で現役の大学生みたいな人は、レベル4か5ぐらいが平均的だったと思います。
 
思ったとおり、自分の英語力は、日本人にしてもあんまりいいほうではないなぁ。 でも覚悟していたことだから、これから頑張るぞ。
 
英語力そのものが低いことは、それほどショックではなかったのですが、ショックだったことは別にありました。
 
それはまず、勉強しているからといっても、英語がそんなに順調にうまくなるわけではないことでした。 特に最初のうちは、聞いてもわからないし、自分の言いたいことも伝えられない。 まるで小さい子供になったような気分でした。
 
思ったようなコミュニケーションができないというのは、すでに大人になっていて、日本で一人前に仕事をしてきた自分にとって、考えられないような無力感に襲われることでした。
 
あれだけバリバリ(?) 仕事をしてきた自分が、ここでは仕事をするどころか、まともに大人と会話することさえできないではないか。 全く何の役にも立たない人間になってしまった。
 
最初に JFK空港に降り立って、滞在先に落ち着き、初めて外に出たときの感覚も蘇ります。
 
マンハッタンのストリートに出ると、たくさんの人々が歩いています。 フルーツを売っているような屋台もあちこちに出ています。 みんな、向かっている目的地がある。 共に暮らす家族がいる。 でも私には何もない。 歩いていく先もない、家族もいない。
 
今のニューヨークに、いやアメリカ中を探しても、私が誰だか知っている人なんてひとりもいない。 ここで急に倒れても、私のことを心配してくれる人なんて誰もいないんだ。 ただのひとりの外国人が倒れてるというだけだ。
 
日本にいたら、勤務先の会社名を言えば、あぁ○○かとわかってもらえる場合もあるけれど、ここニューヨークでは、たとえ日本では大企業でも、全く知られていなかったりするのだ。 例えば NTTとか、東京三菱銀行(当時) とか、電通とか言ったって、ニューヨークでの一般的な知名度は皆無に近い。
 
自分のことを、こいつはこういう奴だと知っていてくれたり、仕事ぶりを認めてくれたりする人も、ここには誰もいないのだ。 今まで日本で暮らしていて、自分のことを知っていてくれるそういう人たちがいるというのが、生きているということだったんだなぁ、と、鳥肌が立つような感覚があったのです。
 
そういう感覚を経て、毎日いくら頑張って英語を勉強しても、なかなか上達しないという現実に疲れてきたある日。
 
いつもの英語の授業のあと、何となく人波を見たいような気になって、大学の構内の、エスカレーターのわきのところに座りました。 いつもは来ない場所でしたが、ぼーっと学生たちの人の流れを見ながら、私も彼ら彼女らのように、ちゃんと大学生になれるんだろうか、いったいいつになったら、英語ができるようになるんだろう、なんてとりとめもなく考えていた時でした。
 
“~~, ~~?”
 
なんか近くで声がしました。 最初はわからなかったのだけど、もしかして私に言ってるかな、と思って、そちらのほうを見てみたら、20歳前後のとっても若い男子学生が、私に話しかけていたのです。
 
“You look so sad. What happened?” (すごく悲しそう。 何があったの?)
 
えっ悲しそうって!? そんな悲しそうな顔してたんだろうか自分は? それに、そんなことで話しかけてくれるの?
 
自分がどう答えたかは正確には覚えてないけど、英語が難しくて落ち込んでる、みたいなことを話した記憶があります。 そして、訊いてみました。 “Did I look sad? You talked to me just because I looked sad?”
 
そしたらその彼は、自分もよその国から来て、英語を覚えるのが大変だったからよくわかる、と言ってくれました。 悲しい気持ちになっている人は顔を見たらわかるよ。 だって自分たちは “human being” じゃないか。 “Do you know what human being means?”
 
“No.., I don’t think I’ve ever heard the words.”
 
彼は、持っていた自分のノートに、HUMAN BEING と書いて見せてくれました。 Human being..? やっぱり知らないや、と思っていると、彼は、大丈夫だよ、みたいなことを言って、じゃ!と去っていきました。
 
それまで全く聞いたことがない言葉ではあったのだけど、話の流れからして、「人間の心があるから」 みたいな意味であることは想像できました。
 
そしてそれはやっぱりその通りでした。 Human という言葉と違って、human being というときは、「血の通った人間」 だよという意味が強調されるのです。
 
Human being という言葉からは、誰かの気持ちに共感したり、感動したり、境遇について思いやったり、人間としての生活の環境を調えたりというような、生きている生身の人間というニュアンスを連想します。
 
“We are all human beings,” という意識は、ニューヨークではあらゆる場所で感じることができます。 学校だって、職場だって、それぞれの個人を人間として尊重するというのは当然のことで、決して絵に描いた餅ではありません。
 
政治の世界でも、人々がデモ活動をするようなときも、“We are all human beings,” の精神を感じることはよくあります。 誰かが困っているとき、つらい思いをしているとき、社会を変えなくてはいけないと行動を起こすことができるのは、人間としての心があってこそです。 コミュニティの誰かの問題は、私たちみんなの問題だというメッセージをいつも感じます。
 
日本ではこういう、人間としての心を感じることがなくなっていますね。
 
学校でのいじめ、職場でのセクハラ、パワハラ、権力者を優遇して弱い者を守らない政治。
 
自分以外の人がいくら苦しんでいても、困っていても、全く思いやることはなく、心が痛むこともないように見えます。
 
Human being の言葉を教えてくれたあの彼のことを思い出すと、今でもとても感謝の気持ちになりますし、あたたかい気持ちになります。
 
私がよっぽど暗い顔をしていたのかもしれませんが、全く知らないアジア人に、よく声をかける気になってくれたなぁと。 そのおかげで私は、あの時のピンチから救われました。
 
日本では、悲しい顔どころか、明らかに困っている人がいたって、話しかけることはほとんどないですよね。 他人のことは全く気にかけないという姿勢は、健全な human being の姿ではない。
 
We are all human beings.
 

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