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定年間近になって気になる健康な心身

20代は「まだまだ先があるさ、本当に自分に合った仕事に出会う為にとりあえず」「近い将来チャンスが訪れてビッグになりたい」「金になるからってすぐに飛びついて後悔したくない」など、また言い方を変えると、色々な理由付けを考えて慎重な手探りのはずなのに自分の目の前にあるチャンスを見逃し「石橋を叩きすぎて」、または刹那的にブームに乗って「小さな成功ですぐに満足」してしまって無難な人生を決めてしまった気がする。

とは言え、他の人とからは良く「変わってるね」とか「将来何か大きなことやりそう」とか「人間愛に満ちているよね人の為になる仕事向いているよ」とか普通の人生では終わらない可能性があるが如く頂いた言葉は今でも忘れていない。実際10代後半ではロックバンドのボーカルとしてヤマハのライブハウスコンサートに出た時、まだ高校生だったが「バックアップするから本気でやってみないか」と言われたり、20代では出版関係で丸々1冊の編集や企画、レイアウトやライターを何冊か任されて「よっぽどこの仕事に向いているんだな」と出版社の編集長などに言われていてその気になっていた。30代では稼げる営業の世界に入り「君ならどんな商品でも売ることが出来るよ」とまで社長や先輩に一目置かれ、要するに自分は「器用貧乏」まあ少し良く言えば「オールランドプレイヤー」なんだと今では思っている。

それぞれの転換期にチャンスはあったかも知れないが、自分はもともと「あきっぽい性格」で、「向いてないからやめる」「実績をあげられなかったからやめる」ことは一度も無いが「必ず入った場所である程度の実績を残してからやめる」を続けていたのです。

それは当時まだ「学歴社会」や「終身雇用」が当たり前で、3K(高身長・高学歴・高収入)がトレンディドラマで脚光を浴びていた時代だったから、「断念して挫折して仕事を変えるんじゃない」「やり切ったから新しい仕事に挑戦したいんだ」のささやかな抵抗心から生まれたポリシーだったのかも知れない。

大学時代にバイト先のスナックには常連であっち系の怖い方々がいらして、幹部の方に可愛がられたこともあった。若かった自分は友人と飲みに行っては売られた喧嘩は全て買っていたので、後々まで揉めて自分を「インテリ〇クザがこれからは必要なんだ」として引き抜こうとシツコク連絡してきていた相手方に電話一本で話付けてくれて助けてもらったりしたことがあった。その方から「若いうちは何事も人生経験だ」と教えられた。

当時、芸能人の付き人として働かないかと外車も用意するからとプロダクションの社長さんと契約した事もあったが、当時付き合ってた彼女に猛反対を受けてそれは即解約した事もあった。

人生を変えた機会はいくつかあった。バンドのチャンスでは、高校時代に同級生のO君が「ラウドネス」のギターになったり先輩には伊藤蘭や関根勉も出た高校なので芸能界に行く人も何人かいたが、後に中学の後輩の「聖飢魔Ⅱの小暮」がデビューを果たしたりもした。プロダクションの社長と知り合ったきっかけから芸能人の付き人を経ての芸能界入りのチャンスは後に同年代の「とんねるず」が成功したし、また出版社で働いていれば独立して社長か編集長になれたはず、また追記で35年余り前に「鶴光のゴールデンアワー」では度々投稿させて頂いたり直接電話で話したり歌ったりで特賞のカセットレコーダーや記念品を貰った記憶があり、お笑いや番組のシナリオライターになりたかった時期もあった。

まあ、そんなこんな言っても真剣に仕事や将来を考える時期がずっと後だったので30代一杯は飲んで遊んで恋愛して自由奔放な生活をしていたんですよね。彼女が何回か出来て3~4年すると別れるパターンになっていたので、「結婚はもういいや」って気持ちにもなっていて、30代から40歳過ぎまでちゃんとした営業会社で年収1000万円以上は稼いでいたが、全てギャンブルやキャバクラやスナック・パブに使っていたことを思い出す。この時期にも部下や同僚の為に営業マニュアルなどを作ったり教えていたので、それらを見たり聞いたりして知り合いの起業家から「営業力生かして一緒に仕事しないか」の誘いは幾つかあったがそれも「不確実な仕事はしたくない」との安楽な理由で断っていた。というか真面目に考えなかったんだろうね。

だが、こう見えても人の相談事の解決能力はかなり高い方で、法学部出たってことはあまり関係ないかもしれないけど、とにかく「人の心や気持ち」がわかるのでネットで知り合って後悔していた離婚したばかりの女性に対しては「男は長く付き合った彼女から別れを告げられた場合結構後引きずるから、後悔してるならまた会って一度話してみたら」といった助言だったと思うがうまくいってその離婚した当人とまた再婚する旨の報告を受けたり、また、土地所有の方がその土地に未だに建っている旅館の持ち主との間で解体と解体費用の事でもめている案件に関してなんかも、当然両者に弁護士はいたのだが3年間解決しないとの事で両者と話して居り合い処を見つけて解決の糸口を作ってあげたり、なんの稼ぎにもならないけどそういう事が得意になっていた。

まあ、紆余曲折の人生勉強をしてきた中で、いつしか「人生経験豊富」な人間になっていたのかなとも今は感じている。

話を戻すが、そして40歳中頃に、「結婚など諦めていた」俺だが、ネットで以前からチャットをしていた彼女が失恋したという事で急遽いつもの如く「お人よしの性格」から「食事でもして笑い話に変えようか」といったノリで誘い、彼女とはその時初めて会ったのだが話をしていくうちに、自分と似た引越し続きの境涯や不幸な生い立ちなんかを聞いて、それよりも何よりも控えめで優しい感じが溢れている人だったので、いとおしく共感を持てて、その後週末には東京都千葉を行き来する付き合いをし始めていた。

彼女は体が弱い体質だったので、付き合い始めて2~3か月したころ電話で話していたら急に「あっ、具合が悪くなってきた、救急車呼んで」って言われたので彼女の安全を危惧しドキドキしながら呼び、しばらくしたら途中救急車の介護士から「〇〇病院に搬送しましたので」と連絡があったので自分も急いで車で東京から千葉まで夜中に飛ばして午後2時過ぎに着いたのを覚えているが、朝方になって点滴して寝ていた彼女が話せる状態になっていたので「もう心配だからこの後すぐ自分の家に連れて行くから、面倒見るから、何も持ってこなくていいから、仕事もしなくていいから」と言うと彼女も頷いてくれたので、その日から一緒に住むことになり3か月後には2DKの私のボロアパートから3LDKマンションに移り住んで同時に籍を入れたのでした。

それから「自分一人ではない」という責任感から一部上場企業に願書を出しまくり現在の会社に営業として入社する事が出来。でも、挙式してなかったので2年後にハワイで挙式するまでとにかく新しい職場でのパワハラにも負けずに実績もあげて一戸建て自宅も購入し、海外旅行にも5回ほど行き幸せな夫婦生活を10年以上続けているのだが、気づけばもう50代後半の今、今度は定年後や今後の心配が大きくのしかかってきた。

30代後半に一度「鬱(うつ)」で半年間仕事をしなかった時期があったのだが、その時は独り身であったし競馬で200万円程大勝したので気ままな休養にもなっていたが、今は自分がギブアップしたら家族が路頭に迷うことになるのでそれは出来ない。プレッシャーやパワハラやストレスに対しては耐性が多少できたのでなんとか乗り越えているが、いつの間にか長い年月の間に「怖いものなし」の性格から「心配性」になっていた自分がいる。

同年代の友人には「アパートやマンション」を所有したり「太陽光」で収入を得たり「投資信託や株」で収益を上げていたりして「転ばぬ先の杖」を用意周到していたりで羨ましい方々が数人いる。しかし、私には会社を辞めた後の収入減がない!

でもそれでも病院の定期検診や精神状態の平穏や健康を保てる状態に「自分自身が働きかけて動くことによって」勝ち取っている。会社の中には自らの成績を気にして有休を取り辛かったり毎日怒鳴られるのが当たり前の行動をしている人がいるが、なんとか実績を挙げ続けて自分のささやかな安全地帯とでも言うべきテリトリーは守っている。

こんな現状の中、今年に入ってTwitterデビューし、そしてこの「note」もデビューし、それが今後の自分の人生後半戦を生き抜く何かのきっかけになればと密かに期待して楽しみにしている。若いころは短編の雑誌に随筆や小説も載せて頂いたりしていたし、まだまだ新しい事をし始めるのに手遅れという概念は私には無いので、頑張っていきたいと思います。












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