見出し画像

ウッカリ湧いてくる私の『希死念慮』

若かりし頃は、軽率に「ああ、死んでしまいたい」という気持ちが、しばしば頭をよぎっていた。

年を取るとともに、その気持ちはとても薄くうすーくなっているが、突然思い出したかのように、湧き上がることもある。
ただ最近は、その感情をやりすごす方法がある程度わかったため、以前ほど囚われることはなくなった。

ということで、このnoteでは、私が若い頃に抱きがちだった、希死念慮やそれに付随するキーワード・内容を記載しようと思います。
このキーワード・内容に嫌悪、恐怖などの感情を覚える方は、ページを閉じるか、戻る事をオススメします。


「希死念慮」とは

「希死念慮」という言葉がある。
誰でも、とは言わないが、聞いたことがある人も多いだろう。

言葉自体の意味は、

希死念慮(きしねんりょ、英語: Suicidal ideation)または自殺念慮(じさつねんりょ)は、自らの命を絶つことについての考えや反芻のこと。 これは診断名ではないが、一部の精神障害の症状であり、精神障害がなくとも辛い出来事や有害事象に反応して発生することがある。

Wikipedia

実は、「希死念慮と自殺念慮がほぼ同一の思考内容をさしている」という事を知ったのは今回が初めてだった。
ただ、やはり微妙に違いはあるようで、

自殺念慮の場合、強い感情を伴った自殺に対する思考あるいは観念が精神生活全体を支配し,それが長期にわたって持続するのに対し、希死念慮では、思考あるいは観念として散発的に出現する場合を指すことが通例であり、「消えてなくなりたい」、「楽になりたい」などが希死念慮の具体的な表現型です。

働く人のメンタルヘルス・ポータルサイト こころの耳

とのこと。
上記の定義に、過去の自分をあてはめると抱いていたのは”自殺念慮”ではなく、”希死念慮”だったのだな、と再認識。

当時はあの感情が「探せばでてくるものではない」と思っていたので、その言葉自体を知らなかった、というか、調べることもしていなかった。
自分では異常だと思っていたものが、世の中には普通に存在していた、というわけだ。

それが悪い、とは一切思っていない。
ただ、「自分も意外に並の人間だったんだな・・・」という感想ではある。なんだ、ちょっとガッカリしてるのか?と思いつつ。
まあ、異常の有無は別として、人生なんて大概そんなもんだろう。

若かりし頃の「希死念慮」発動条件について

さて、「若かりし頃には軽率に希死念慮を抱いていた」と書いた。
自覚、というか、そういう感情を抱いた記憶があるスタートは、おそらく中学生の頃。
小学生の時は、居心地の悪さを感じつつも、死を望むほどの頭はなかったと思われる。
いや、自覚する知識がないだけだったかも。

そして、覚えているラストは20代前半頃だろうか。
新卒の年に、内科系のがんを発症。
自分の死を意識する瞬間が幾度もあった。

家族や医療従事者、ドナーや同じサバイバーの方々のおかげで立ち直り、社会構造の1歯車としてなんとか復帰できた。
その点については、本当に感謝しかない。

社会復帰して数年は、1歯車に戻ろうと必死だったため、希死念慮を抱くほどの余裕はなかった。
人間関係にくじけまくり、ジョブホッパーをくりかえし、ようやくある会社に長居することができた時。

ふと、よぎった。
「あー、死にたい・・・」

久しぶりに覚えた感覚に驚きつつ。
その時の感情は、学生時代や病気の前にいだいていたソレより
”ずいぶん軽いな”と感じた。
冗談ぬきで死ぬ思いをしたから、あるいは別の要因か。

そこから自分の「死にたい」感情の発動条件を探ることにした。

結論。
私の希死念慮は、リアルに【死にたい欲】ではなく【逃避欲】からくるものに近いようだった。

「希死念慮」の意味を調べると、

死にたいと願うこと。
[補説]自殺願望と同義ともされるが、疾病や人間関係などの解決しがたい問題から逃れるために死を選択しようとする状態を「自殺願望」、具体的な理由はないが漠然と死を願う状態を「希死念慮」と使い分けることがある。

デジタル大辞泉

というのも出てくる。

デジタル大辞泉をもとにすると、私の感情は「自殺願望」になるが、理由を認識する前までは「希死念慮」だったようで、なかなかややこしい。
いくつかの解説をみても定義は100%同じ、というわけでもなさそうだ。

まあ、ビミョーな差異はありそうだが、希死念慮で書きだしてしまったので、このままでいくことにする。

話しを発動条件に戻す。

発動条件を意識しながら生活していると、3つ以上のマイナス条件がかさなると希死念慮が出現することに気づいた。
私の場合の最低条件は、<寒さ> <疲労> <空腹>だった。

ある意味単純、生理的欲求に素直すぎる条件だった。
対処の仕様がわかりやすくて助かるが。

「遊びに出かけた」「旅行へいった」などの楽しい状況後の疲労は、問題がないようだった。
なので、ゲンミツにいうと<ヒマ、または苦痛な状況がつづいた後の疲労>だろう。
しかし、仕事帰りの疲労はどうしようもないので放置。
それ以外の条件を削ぐことに決めた。

<空腹>は食べれば解決するのでわかりやすいが、いかんせん”体重増加”という面倒事とあとで戦うことになるので、こちらも放置することに。

ということで、今は<寒さ>を削ぐことに注力している。

気候の良い春~秋までは気をつけなくてすむ。
そのため、問題は冬。
といいつつ、もともと寒がり属性なので、動きが阻害されないくらいの着ぶくれダルマになればカンタンに解決する。

ただ、最近のファッション業界に言いたいことはひとつある。
「なんでレディースの服は、
”ボディーラインにフィットするものが良い。薄着であればあるほど良い”が前提なんだよ。
だぼっとしたシルエットの服も増えてきたけど、機能性を軽んじた物はマジでやめてくれ」
だ。
最近目にする「レディース服はポケット少なすぎ」問題もそうだが、デザインと機能性が乖離していく現象は冗談抜きでやめてほしい。
あれ、ひとつどころじゃなかったな。
まあ、いいや。

要するに、レディースラインだって、デザインと機能性が同居した服で一向に構わない。
むしろ大歓迎だ。


私的「希死念慮」との付き合い方

自分の希死念慮との向き合い方、というか、あしらい方が分かったため、
今では
「死にたい・・・はいはい、疲れてんのね」とか
「死にたい・・・ああ、腹減ってんのね、焼き肉のいい匂いするからなー」とか、返事を返すようにしている。

私の場合は、幸いそれでなんとかなっている。
他の人の場合は、他の方法でやりすごす・だます方法もあるだろう。


ぼんやりと考えていることだが、

「自殺念慮」「希死念慮」は病名として存在しているが、意外に軽率に抱くことがある感情なんじゃないか?

というのが、私の感想である。
まあ、身近な人間に「死にたいって思ったことある?」と全員に聞いて回ったわけではないので、完全なる主観ではあるが。

他にもなるほど、と思ったことがある。
「人生の問題の99%は金で解決できることだ」という言葉を読み、
死にたい願望が顔を出した時、その根っこの感情が
「100億円、無課税で今すぐ手に入るとしたら解決するか?」
と考えるようになった。

仕事は自分の存在意義・存在場所を見出す、という意味でもあるが、
大半は「生活費を稼ぐため」が動機だろう。
私の場合は、ほぼ100%ソレだ。

なので、つまらなかった仕事の疲労で死にたい欲にとらわれていたなら
「1日お疲れさん、帰ってご飯食べて、酒飲むか甘い物食べるか、9時間寝ようぜ」となだめる。
幸い、それで収まることがほとんどだ。


希死念慮=ほぼ逃避欲だった私からすると、若かりし頃の自分は、
「見えている世界が狭かった」
「知識が乏しかった」

のもあったのだろう。

否が応でも、社会構造の1歯車となった今では、知識も増えたし、金を稼ぐ手段も手に入れた。
ようするに、広義で“世界が広がった”のだろう。

デジタルツールが発達した現在でも、相も変わらず
「本を読め」
「他人と会え、交流を持て、会話しろ」
とアナクロな事が言われつづけるのは、なにかしらの成果があった人間が多いから、なのかもしれない。

コミュ障な私にとって、一番手軽なのは「本を読む」ことだ。

私も良くやりがちなのだが、
「この本には私のほしい答えが書かれていなかった!」
と目的が先にきて本を読み、勝手に落胆してしまうことだ。

調べもののときはコレが正解なのだが、知識(という名前の、他人の生き方・考え方)を見る、知る場合は、悪手になりがちだ。

なので
「自分のほしい答えを載せている作者か?」ではなく、
「この本を書いた人間は、なにを考えて生きている人間なのか」
の気持ちで読むと比較的スムーズに受け入れることができる。私は。

もちろんツールは本でなくても構わない。
電子書籍でも、作者のお気持ちを載せた記事でも構わないだろう。

自分とは何が違い、どう考えて生きている人間なのか?
どういう意見があるのか、自分の中でソレをどう感じたのか。

などなど。
考えるだけだと頭がぐちゃぐちゃになる人は、紙に書きだしてもいい。

作者に完全同調などしなくていい。
「この人、面白いこと言ってるな」の時もあれば、
「この人の言ってること、なんか癇に障るな・・・つーかムカツク」
で終わる時も多々ある。

どういう人間・意見に対して、共感を覚える・あるいは賛成できない、などサンプルケースを重ねていくと
「自分は〇〇の考え方は好きだな、でも、△△の考え方は嫌いなんだな」
と、ちょっとだけ自分の輪郭が見えてくることもある。


見えていなかったものが見えるようになる、
知らなかったことを知ることができる、
これでどうにかできる感情もある。

もちろん、希死念慮を抱くすべての人間が、同じ方法で解決できる、
なんて微塵も思っていない。

だが、私自身が「解決方法の具体例が欲しい、でないと全然わからない人間」なので、私の具体例から同じような人が自分流の”どうにかできる方法”のヒントをつかめれば重畳、という自惚れた気持ちで書いてみただけに過ぎない。



ものすごーーく長い蛇足という名のお気持ち

希死念慮周辺の話ではありますが、ここからはただの「私のお気持ち表明」になっているため、聞く気はないな!という方は、ページを閉じていただければ、と存じます。

希死念慮を調べている途中に、「自殺企図」という言葉があるということを知った。

自殺とは自ら自分の生命を絶つ行為ですが、様々な手段により、実際に自殺を企てることを自殺企図と言います。うつ病などのメンタルヘルス不調により自殺企図に至ることも多く、すぐに医療に結びつける必要があります。

働く人のメンタルヘルス・ポータルサイト こころの耳

自殺企図(じさつきと)とは、自殺を実行して失敗した場合を「自殺未遂」、結果的に死に至った場合を「自殺既遂」といい、自殺企図は「自殺既遂」と「自殺未遂」の両方を指す語である。そのほか、実際に計画や行動には表れていないものの、死を強くイメージすることや死を願望する場合を「希死念慮」、自殺をしてしまいたいと考えることを「自殺念慮」という。

看護roo!用語辞典


希死念慮に重い、軽いの度合による線引きが存在するかはわからない。

だが、私のような小手先の対処法でいなすことができない、本当にどうしようもない希死念慮を抱いている人は、さっさと専門家や医療機関にかかった方が良い。

理由としては、

1)精神的治療が行われるクリニックは、予約がだいぶ先まで埋まっていることが多い
2)好きな時に死ぬ権利が公に認められていない、死ぬのにも気力がいる

の2点がネックだと考えている。

1)の「精神的治療が行われるクリニックは、予約がだいぶ先まで埋まっている」について。

一つ目は、
「受診予約の電話をかけた時点で1カ月先まで予約で埋まっているため、即日診療は不可」と言われることが多い。

この話は、実際にクリニックにかかった身内や、ネットの感想を探すとたくさん出てくる。
・・・今、苦しんでるのに1カ月先まで苦しめってどゆこと??
というドストレートな感想を私も抱いた。


たしかに、「じっくり話を聞く」「●●療法等を行っている」等。
1人に1時間も2時間も取られるのは確かに仕方がない、と思いつつも、今助けてほしい人がすぐかかることもできないのか?と、モヤモヤとした矛盾も感じている。
なんだかトロッコ問題的な矛盾だ。


二つ目は「メンタル疾患で受診するとしたら何科かわからん」という問題。


思いつくだけで「心療内科」「精神科」「メンタルクリニック」と3つもある。
医療者からみれば細かい規定があるのだろうが、素人に違いを理解しておけ、というのはムリな話だ。

「医者の常識は患者の非常識」と闘病中に何度も感じたことがあるが、正味な話、私も調べるまで違いがわからなかった。

ザックリそれぞれの科について説明を抜き出すと、

●「心療内科」「精神科」「メンタルクリニック」は『精神科的治療』が行われているクリニックであり、実質的には同じだと考えてよい
(心療内科と精神科で異なる点は専門分野)。

● 【心療内科】さまざまなストレスが要因となり身体に現れる症状を扱う。  
心理的なきっかけで起こる吐き気や頭痛、全身倦怠感、腹痛・下痢、めまい・耳鳴りなどが診察の対象心が体に影響を及ぼす心身症を主な対象とする。
 ⇒身体にあらわれた症状が目立つ場合は「心療内科」

 【精神科】脳が原因で起こるこころの不調全般を扱う。
具体的には不安や落ち込み、イライラ、落ち着きのなさ、幻覚・幻聴、物忘れ、過眠・不眠などが診察の対象。
 ⇒心にあらわれた症状が目立つ場合は「精神科」

 【メンタルクリニック】一般的には心・身体の症状、両方ともカバーしている(こころの不調では、身体の症状も同時に出る場合が多い)。


わかるようでわからん説明だな、と思ったが、共通して書かれていたことは
「最初は通いやすい所で診察をはじめるのが良い」
だった。

診療科名やイメージの抵抗を減らすため、「精神科でなく心療内科」と書かれていたりすることもある、とまたややこしいので、
とりあえずは、勢いのまま近くの該当医療機関に予約を入れてみるのも手だろう。

医療機関にかかるのはハードルが高い、あるいは、今すぐこの感情をどうにかしたい、という場合は心理カウンセラーに相談する、という手もある。

すべて自費なので、医療機関より割り高だが、圧倒的にアクセスしやすいのはメリットだろう。
私も、心理カウンセラーには何度か掛かったことがある。
身近な人間には吐き出しにくいことを、聞いてもらえるのはとても有難かった。

ただ、心理カウンセラーに相談し、解決することもあるが、薬を出したり検査を受ける場合は、やはり医療機関にいく必要がある。
心理カウンセラーは医療行為ができるわけではないからだ。

それだけは念頭において、行くだけ行ってみるのもアリ、と私は考えている。


2)好きな時に死ぬ権利が公に認められていない、死ぬのにも気力がいる、ついて。

医療機関にかかるのも気力がいるが、個人的には死ぬのにも気力がいるな、と実感していた。

一歩踏み出せば、もう少し手を勧めれば・・・。
といいつつ先に行かないのは、身体に「死なないようにする」という本能があるからだろう、と。
面倒なことだが、どの本能を振り払うのも気力がいる。

さらに、「生きることも難しいが、死ぬことも難しいのが現代」で、人間の世界は「生きる権利」は声高に叫ばれるが、好きな時に「死ぬ権利」は公に認められていない、といつも感じている。

まあ、他人に迷惑をかけてもいい、なりふり構わず死ぬのであれば、難易度は下がるかもしれない。
しかし私の経験則上、意外にも「死にたい」と思いつつ「他人に迷惑かけたくない」という考えも同居しがちなのだ。何故か。


そして医療技術が発達しているため、自殺から救助されることも多々ある。
自殺を試み救出されたが、致命的な後遺症が残り、生きることも苦しくなる・・・という事もあるそうで。
後遺症が残った実例を読んだことがあるが、それはそれでだいぶしんどいな・・・と震えた。

とりあえず楽には死ねないのだな・・・とは常日頃感じている。
まあ、長生きしたとて、楽に死ねるのか?といわれれば
「わからん」と返すしかない。
だって、本当にわからない。死んだことがないからな・・・。

なので、個人的には「”好きな時に死ぬ権利”というライフカードを自分の胸に秘めつつ、とりあえず明日だけは生きてみてもいい、という気持ちで生きてみてもいいのでは?」と思っている。

闘病中に1日中、頭の大半が「痛い、しんどい」に支配される状況がある。
もしこのままの状況であと40年、50年生きていけと言われたら自殺したくなるな、と感じたのは確かだ。

その際に「“いつ死んでもいいよ”という許しがあるなら、もしかしたら数日はやり過ごせる。数日やり過ごすを重ねていけば1月、1年たつこともあるかも」とも考えた。

死ぬのは1度きり、死んだら他に何もできないが、死ぬために人生をゆる~く生きていくのもありなんじゃないか、と私は思っている。

つねに死に囚われているのは病気だなんだ、と言われるが、結局はみな死ぬのだからいつから考えていてもいいだろう。
考えながらも、私のようにふとしたきっかけでソレを振り払える日が来るかもしれない。

あるいは、つねに死に囚われなくなったら、別の願望を叶えるために生きたっていいだろう。
さらに別の願望も、標準だといわれる「幸せになりたい」と願ったっていいだろう。

私のお気持ちの結論としては、「”死にたい”と考えながらも死ぬのは面倒だから、とりあえずで生きておくか」でもいいんじゃないだろうか。
そう、思える瞬間が来ることを願ってやまない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?