わたしが心に留めているコトバ。
アクセスしていただきありがとうございます。
北大のそこらへんにいるB1、あす。と申します。
今日は私が心に留めているコトバのひとつを皆さんにお話ししたいと思います。座右の銘のひとつといったところでしょうか。お時間のない方は、1.を軽~く読んだ後、2.を飛ばして3.だけでも読んでいただけると嬉しいです。では、さっそく。
1.袖振り合うも多生の縁
さて、この言葉こそ、私が大切にしているコトバのひとつです。
道端で袖が触れ合うだけのような、たったそれだけのちょっとした出会いも、過去に何度も生まれ変わってきた中のどこかで出会ってはお別れをしたような、そんな深い因縁のあった人なのである、といったところでしょう。
「多生」や「何度も生まれ変わってきた」という言い回しから少し察した方もいるかもしれませんが、このコトバには仏教の「輪廻転生」の考えが反映されています。
ちょっとした出会いも単なる偶然ではない、ということを表しているというコトバです。
2.多少、と間違ってはいけない。
先に紹介した「袖振り合うも多生の縁」というコトバ。
このコトバは異なった書き方をされることが多いのです。
例えば、
袖触れ合うも多生の縁
袖すり合うも多生の縁
袖触れ合うも他生の縁
袖すり合うも他生の縁
袖の振り合わせも他生の縁
etc.
さまざまな書き方がありますが、これらは基本的にすべて同じ意味です。
しいて言うのなら、「他生」というコトバの意味が少し違うことくらいでしょうか。
「他生」が、現世を「今生」というのに対して過去世と来世のことを意味するのに対し、「多生」とは、何度も生まれ変わることを意味します。
つまり、全体の意味を考えると、意味は通じるので完全な間違えとは言えません。ですが、俗語表現といえるでしょう。
しかし、ここで私が問題視する間違った覚えられ方は「袖振り合うも多少の縁」という間違い方です。
ここまで読んでくださった皆さんなら、コトバの意味を考えれば「多生」を「多少」と間違えることの重大さは言うまでもないでしょう。
少なからずある縁、いった意味になってしまえばこのコトバが与えてくれる本当の信念は崩れ落ちてしまいますよね。
3.私がこのコトバを心に留めたワケ。
私はご縁やご恩、あるいは出会いや別れというものを一生大切にしたいと常日頃から思っています。
いま、近くにいる人に少しだけいいことをしたら、どこかで自分にもいいことをしてくれる人が現れるかもしれない。逆に、少しだけいいことをしてもらったら、必ずちょっとしたお返しを。そんな、迷信といわれても仕方のないことですが、私は大切にしています。
また、親戚付き合いも、とても大切にしています。
はとこ、といわれると、皆さんはその親戚を遠い親戚と感じるかもしれませんが、私にとってはすごく近くて深い関係性があります。
マンション暮らしになってこそ、なくなってしまいましたが、地元ではその辺一体のご近所さんとお話しする仲でした。
お隣のおじさんなんかは、誕生日ケーキを届けてくれていたくらいです。
幼稚園のときから一緒だったひと。義務教育時代に出会ったひと。そんな、今、頻繁に会うことはないようなみんなとも、その関係性を簡単にやめて、おざなりにはしたくありません。
正直言って、やめようと思えばすぐにやめれると思うのです。
というより、関係性が続いているかどうかって、気持ちの問題ですよね。
インスタのストーリーをお互いに見て、「あぁ、楽しそうにやってるなぁ。」「地元に帰ったら声かけてみようかなぁ。」そういう気持ちがあれば繋がっていると思うんです。
そういうつながりを大切にしたいと思ったとき、逆にそのつながりが「もういいかなぁ…。」と思ってしまいそうになったとき、わたしはこのコトバを頭に浮かべるのです。
皆さんにもきっと、大切にしたい出会いや、忘れられない別れがあることと思います。簡単に浮かばない人も、18歳の私でさえあるんですから、ちょっとだけ振り返れば、そんな関係性のひとが見つかるはずです。
そして、10年後、20年後に大切にしたいと思える、まだしていない出会いは、ひょんなことから始まるかもしれないのです。
たまたま授業が一緒だっただけのひと。
いつも電車やバスで見かけるだけのひと。
お互い顔だけ知った、よく行くお店の常連同士。
そんな、袖が振り合うだけと思っている近くのひととの出会いを大切にしてほしいなと思っています。
では、また!
2020年12月12日 あす。
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