「公園感」について考える。
おはようございます。
最近、いまさらながら西野さんの光る絵本展でおなじみの音楽「満願寺」が、Apple Musicで聴けることを知って、ひたすらリピートしています。
さて。
ここのところ、毎日「うおーーーー!」ってなるような学びが多くて、爆走気味な文章が続いたので、今日は少し肩の力を抜いて、エッセイめに書いてみたいと思います。
コロナで外出自粛になってから、毎日散歩にいくようになりました。
大体、夕方の18時〜19時。
いろんな家から晩ごはんの匂いがしはじめるとき、まだ若干夜には早くて、空に夕方が残っているとき。
意外と人はいなくて、そういう空とか空気を独り占めするような気分で、歩いてます。
いろんなところに行こうと決めつつ、なぜかいつも同じ道に惹かれて。
でも、いつも同じその道を歩く方が、いろんなところに行ってるような気分にもなって。
結局、同じルートになっています。
で、だいたいその行き着く先は公園です。
わたしは家の近くに大きな公園があって、別にそう決めているわけではないけれど、気づいたら毎日公園に行くのが日課になってます。
ぐるっと一周するのか、手前で折り返すのか。
公園をどこまで歩くかは日によってちがうけれど、でもなんだかんだ言って、いつも公園を歩いています。
犬の散歩をしている人、走っている人、カップルでのんびりしている人。
いろんな人たちがいます。
はたからみると、自分もその中の一人なんだけど、ある時ふとこんなことを思いました。
「この人たちは、なんで公園にきているんだろう」
「なんのために、なにをしに公園にきているんだろう」
周りを見渡すと、さっき書いたみたいに、みんなそれぞれいろんなことをしています。
でも、いつもそこには「公園」っていうおんなじような空気が流れていると思うんです。
それを作っているのは、一体なんだろう。
木?遊具?砂の道?適度な広さ?
あの独特の「公園感」ってなんなんだろうなっていつも考えてます。
そして、そう思ったとき、自分はこの「公園感」に惹かれて、ほぼ毎日足を運んでいるんだなあと思いました。
走る、楽器を鳴らすなど、明確な目的や用事があるわけではありません。
でもなぜかいつも夕方は、あの「公園感」に用があって、無意識に足を運んでしまう。
もしかすると、あの公園にいる人たちの中には、同じように感じている人も多いかもしれないな、と思いました。
見ず知らずの人たち同士なんだけど、なぜかそこにある隣人感。
決して声をかけるわけではないけれど、姿の見えない他人でもなくて、そこにいることがお互いわかっってるような距離感。
これは、ダンジョンみたいな新宿駅ですれ違うような、渋谷のスクランブル交差点ですれ違うような「見ず知らず」とは別の何かです。
誰かわからないけれど、今日も隣で生きてる人たちがいて、そうやって隣り合ってたことを互いにそれとなく確認しあう空間。
もしかすると、わたしが惹かれる「公園感」は、そんなものでできてるのかもしれないな、と思いました。
この「公園感」を探りつつ、アートで公園を作れるように、もっともっといろんな広場や公園を見てみたいです。
今日は平日ラスト。
がんばりましょ〜!!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?