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【映画評】 シャンタル・アケルマン(1)短編第一作『街をぶっ飛ばせ』 未分化な声、鏡の中の死

わたしがはじめてシャンタル・アケルマン Chantal Akerman(1950〜2015)の作品を見たのは、東京「アテネ・フランセ」シネマテークで開催された『シャンタル・カッカーマン映画祭』のだった。当時はアケルマンではなく、アッカーマンと表記されていた。

そのときに見た作品名の記憶は曖昧なのだが、はっきりと覚えているのは、『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』(以下『ジャンヌ・ディエルマン』と略)と『アンヌの出会い』である。とりわけ前者は、これまでわたしが見たいかなる系譜にも属することのない作品であった。映画を勉強した者ならば、意識「する/しない」に関わらず映画史の記憶がフレームに現れるものだ。だが、『ジャンヌ・ディエルマン』は、いかなる映画にも類似しない、世界で最初の映画のように思えた。売春をするシングルマザーの日常の3日間、つまり主婦の家事を淡々と描きながらも、衝撃的なラストシーンの革命性といえばいいのだろうか、その撮り方も含め、「ジェンダー」や「フェミニズム」といった用語が今ほど日常的ではなかった時代(とりわけ後進的な日本社会)に生きるわたしでさえも、何かが精神の奥深くへ降りてくるのを覚えたのである。わたしは事件の現場に遭遇してしまったのだと。劇場公開ではないため、一部の限られた人の目に触れるにとどまったのが悔やまれた。

あれからどれだけ時間が流れただろうか。ようやく、5作品という少ない作品だが、劇場公開されることになった。こんなにも劇場公開が遅れたのは、アケルマン作品の先進性のためである。〈フィクション/ドキュメンタリー〉の境界の横断、実験性、文学作品の大胆な脚色など、映画の可能性を率先して見出そうとする、新たな映画を求めての製作だったことが、劇場公開を遅らせたのだ。

今回、劇場公開される5作品は
『私、あなた、彼、彼女』(1974)
『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』(1975)
『アンヌの出会い』(1978)
『囚われの女』(2000)
『オールメイヤーの阿房宮』(2011)

シャンタル・アケルマンは社会的にはフェミニズムの監督として定着しているが、彼女の作品内容を「フェニミズム」一語に収斂させることはできないことは言うまでもない。
シャンタル・アケルマンは1950年にベルギーのブリュッセルで生まれ、ゴダールの『気狂いピエロ』(1965)を見たことをきっかけに、映画製作の道へ進む決意をしたという。

アケルマンの第一作は1968年、13分の短編
『街をぶっ飛ばせ(Saute ma ville)』
である。
出演者はアケルマンただひとり。自作自演である。漆黒のフレームに監督自身の言語的意味をなさない鼻歌で始まる。鼻歌といっても、わたしたちがイメージする鼻歌、つまり、散歩や楽しいことが起きたときに思わず口ずさみたくなる心地良さの情感ではない。それはメロディーのようでもあり、意味の発生の除去としての声のようでもあり、叫びの表出のようでもある。それは音響としての単なる〈声〉でもない。乳児が言葉を獲得する前段階の〈喃語〉と理解すればより近いかもしれない。ここではとりあえず喃語と表記しておく。続いて都市の情景が映し出され、タイトル『街をぶっ飛ばせ』の表示。カメラがパーンと上昇の不規則な運動の後、文字「RECIT(物語)」 の呈示。そして白い毛糸の帽子に黒いガウン、手には花束を持った若い女がアパルトマンに入ってくる。郵便受けから郵便物を取り出し、エレベーターの昇降ボタンを押すが待ちきれず、急いで階段を駆け昇り自分の部屋に。その間も喃語の放出。部屋に入ると、扉の内側に「GO HOME」「C’est moi(それは私だ)」の文字。棚からガムテープを取り出し、扉や窓の隙間の目張りをする。そしてパスタを食べ、床に洗剤を撒き清掃をし、靴を磨く。それらが滑稽さを伴った戯画のように描かれる。その間も喃語は途切れることはない。女は紙に火をつけガス栓をひねる。爆発音とともにフレームは暗転。そして建物の崩壊音。爆発音と建物の崩壊音は幾度も反復し、街はぶっ飛ばされる。そして「C’était récit Saute ma ville.(物語「街をぶっ飛ばせ」でした)」と、ようやく意味のある声が発せられる。続いて同じ声(つまり主演であるアケルマンの声)によるスタッフの紹介と喃語が続き、映画は終わる。

『街をぶっ飛ばせ』は自宅でガス自爆をはかるひとりの若い女の物語なのだが、興味深いのは、扉内部の文字「GO HOME」「C’est moi」や滑稽さを伴った女の身体、そして映画終盤のフレーム内の鏡である。ガス自爆は扉や窓の隙間を目張りされた部屋で行われるのだが、「GO HOME」はその後のアケルマン作品の主調音である閉ざされた「部屋」であり、「C’est moi」はアケルマン自身の単一な身体性、つまり「孤独」の表出である。そのことだけでも、アケルマン作品の始まりとしての本作の重要性を見ることができる。これを、映画終盤、本作で頻出する鏡面に映る若きアケルマンのナルシシスムと結びつけることも可能なのかもしれないが、そうではないような気がする。

さて、本作の鏡。ガス自爆へと突き進むアケルマンはフレーム上の鏡面を通して描かれている。鏡に映る自己(アケルマン)の世界。ジル・ドゥルーズはマルグリット・デュラス作品における視覚的イメージと音声的イメージとを対面させ、「視覚的イメージの中には、灰の下または鏡の裏の生が見いだされる」(『シネマ2*時間イメージ』p353)と述べている。鏡の作用について、三浦雅士はドゥルーズの鏡のイメージをさらに進め、彼は、吉増剛造の詩についての『詩とは生き方のことである』の中で、「生の横溢を讃美するのは鏡の背面に死が貼り付いているからなのだ」(『現代詩手帖』2022.3月号)と述べている。つまり、鏡の裏の生を死へと反転させているのである。これは吉増剛造の詩集『Voix』についての論考なのだが、鏡の背面とはある種の死の表象であると読めないだろうか。『街をぶっ飛ばせ』は死へと加速的に突き進みながらも、「生と死のあわいを綱渡りする」映画なのである。化粧乳液を顔に塗り、指についた乳液で鏡面に「C’est moi(これがわたし)」と書きなぐるなど、本作をアケルマン自身の過剰な自己表出、つまり、ナルシシスムと言ってしまえば簡単だが、〈フィクショナル/ドキュメンタリー〉な死、鏡の中の死、擬制の死が示されていて興味深い。そして映画冒頭からラストまで断続的に続くアケルマン自身の喃語に、わたしたちは何を読み取ればいいのか躊躇うに違いない。それは、後に『私、あなた、彼、彼女』(1974)で再び触れるつもりなのだが、言語として意味をなさないある種の未分化な声の表象(音声的イメージ)として『私、あなた、彼、彼女』に繋がるものである。

さて、アケルマンの初期作品についてもう少し述べてみたい。

彼女は1971年にニューヨークに滞在している。web《FONDATION CHANTAL AKERMAN》を調べると、『街をぶっ飛ばせ』の後に、短編『L’Enfant aimée ou Je joue à être une femme mariée』を撮っている。《FONDATION CHANTAL AKERMAN》には1972年製作とあり、ニューヨーク滞在中の作品なのか、それとも撮影自体はニューヨークに向かう前なのか、未見なのでわたしには不明である。タイトルを直訳すれば「愛される子供でいるか、それとも妻を演じるか」。アケルマンらしい、フェミニズムへの視線を感じるタイトルである。

ニューヨークでの滞在中、1972年にジョナス・メカスをはじめとしたアメリカの実験的な映画人の影響を強く受け、最初の長編『ホテル・モンタレー(Hotel Monterey)』(1972)を撮っている。同時録音によるホテル・モンタレーのエントランス、部屋、廊下、宿泊客、エレベーター、ホテルから眺めるニューヨークのマンハッタンの街並みを定点観測的固定カメラ=アケルマンの眼差しで撮った作品で、ジャン=クロード・ルソーの作風を思い出す。彼もアケルマンと同じく70年代にニューヨークで実験映画の洗礼を受けている。だが、彼の場合、映画監督よりも批評家としての活躍が先で、ブレッソン作品やフェルメールの絵画についての論考を発表している。映画監督としての第一作目は、アケルマンよりも15年ほど遅く、1983年、スーパー8で撮った『窓辺で手紙を読む若い女』である。

アケルマンは『ホテル・モンタレー』で、自身が真の映画人であることを認識したと《FONDATION CHANTAL AKERMAN》に書かれている。その実験性は、帰国後の作品製作に繋がっている。たとえば『私、あなた、彼、彼女』は、従来のフィクションで見かけるコード化されたショットはなく、同時録音による生の台詞や撮影時の周辺音に満たされており、まるで映画を見る者を共犯者に化するかのような作法を感じさせる。ガス・ヴァン・サント、ジム・ジャームッシュ、アピチャッポン・ウィーラセクタンなど、多くの映画人が彼女の作品に魅了されているのがよく理解できる。ちなみに、彼女に大きく影響を与えたジョナス・メカスは、アケルマンについて「彼女の作品群すべてが結びついていて、叙事詩を思わせるような壮大な1本のフィルムのようだ」(アンスティチュ・フランセ東京のサイトから引用)と述べている。

さて、このあたりで今回上映された『私、あなた、彼、彼女』へと移動したいのだが、その前に、彼女の初期作品を一覧しておきたい。

『街をぶっ飛ばせ(Saute ma ville)』13分(1968)
『愛される子供でいるか、それとも妻を演じるか(L’Enfant aimée ou Je joue à être une femme mariée)』35分(1972)
『ホテル・モンタレー(Hotel Monterey)』63分ニューヨーク製作(1972)
『部屋(La Chambre)』11分(1972)
『8月15日(Le 15/8)』42分(1973)
『Hangin Out Yonkers』40分ニューヨーク製作(1973)

シャンタル・アケルマン(2)『私、あなた、彼、彼女』に続く

(日曜映画批評:衣川正和🌱kinugawa)

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