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【映画評】ジャン=マリー・ストローブ『水槽と国民』

上映時間のほぼ半分は金魚の水槽の固定ショット。水槽の映像に続き、とある室内で精神分析家エメ・アグネルにより読まれるマルロー『アルテンブルグのクルミの木Les Noyers de l’Altenburg』第二部の一節。最後に、ルノアール『ラ・マルセイエーズ』からの抜粋・引用。

マルローの『アルテンブルグのクルミの木Les Noyers de l’Altenburg』だが、アルテンブルグという名の都市は実在しない。原題ではl’Altenburgと定冠詞を伴っており、普通名詞的に《古い町》というドイツ語義を強調するためにつけられた、というのが定説である。
本作品の面白さの一つに、逆構造がある。つまり、映画の最後から最初へと読み解くこと。つまり『ラ・マルセイエーズ』→『アルテンブルグのクルミの木』→『水槽』と逆を辿るということである。

『ラ・マルセイエーズ』では《国民》の創生と定義を語るシーンが引用されている。何故《国民》なのか唐突でもあるのだが、その伏線として『アルテンブルグのクルミの木』がある。アグネルによる朗読シーンの最後、突然オフの女性の声で、あたかも詰問であるかのように、「わたしたちの形式はどんなものですか」、という趣旨の問いが発せられる。アグネルは立ち上がり、幾分興奮気味に、「水槽の魚は自分の水槽を見ることはできない」、と答える。そして『ラ・マルセイエーズ』の引用となるのだが、マルローの原作ではその後、「まず、第一に、国民です。違いますか?」、と続いている。映画ではこの箇所は意図的に省略され、ストローブ特有の異化(ひとまず国民の前景化を止める)を生み出しているから興味深い。

『アルテンブルグのクルミの木』の引用はメルベルクの会話四箇所だろうか。
第一は、〈さまざまな信仰や神話の下、歴史を通じて承認しうる、人間という概念を基礎づける恒久的な既知事項を取り出すことはできないのでは〉、つまり、〈予見する能力、運命についてのわれわれの感情を知らず〉、ということ。
第二は、〈性交と出生の関係。メラネシアの島々では性行為と出生と結びつける関係を見出していないということ。その証拠に、女は性関係を持っても子供を生まないことがある〉。つまり、〈出生についてのわれわれの感情を知らず〉、ということ。
第三は、〈オーストラリアやアラスカの若干の社会では、与えることはあるが交換は存在しない。そこにあるのはポトラッチ、富の再配分であるということ〉。つまり、〈交換についてのわれわれの感情を知らず〉ということ。
第四は、〈宇宙のとりこであることをやめたとき、人間は必然的に死に遭遇したということ。そのことにより、霊の観念が作り上がられたこと。しかし、死体が腐敗すれば霊は消える。そこからミイラ作りという異常な仕事が発見された。霊とは、死体に対して夢をみる精神が眠る体に対する関係と同じ関係にあるということ。それは、夢を見る精神と同じく、責任のない不死となったものである〉。つまり、〈死についてのわれわれの感情を知らず〉ということである。

このようないくつかの社会について、アグネルの声により論じられる。そこにおいて、〈それぞれの精神構造は、独自の明証的原理を、絶対的かつ争う余地のないものと見なしている。この明証的原理は、生を秩序づけるものであり、それなくしては人間が考えることも行動することもできぬであろうようなものである。それは人間に対して、なかを泳ぐ魚に対する水槽のようなもの〉、ということである。そこから、女性のオフの問い「私たちの形式はどんなのもですか」が発せられ、「水槽の魚は自分の水槽を見ることはできない」を導くのである。水槽の魚とは〈国民〉であり、〈国民〉は〈国家〉を見ることはできないのである。これにより、映画終盤の『ラ・マルセイエーズ』の引用が理解できることになる。

また、映像として興味深いのは、水槽のロングショット(10分は超えていただたろうか)である。
水槽には10匹ほどの金魚が泳いでいる。その様子を固定カメラにより捉えているのだが、水槽の背後には広い店内と道路に面したウインドウがあり、街を行き交う人々を確認することができる。
水槽内に目を移すと、そこには水槽を分節化する木あるいは石のような物質が置かれている。物質を凝視すると、そこには左右に動くイメージが映り込んでいる。それは街を行き交う人々のいまひとつの映像であることがわかる。映りこみの映像はカメラの方向から見たイメージだから、カメラの側に鏡のようなものがあり、水槽の向こう側にあるウインドウを通し鏡に映った映像が反射し、水槽内の物質に映り込んだのだろう。
そしてもうひとつのイメージ。それはやはり水槽内の物質に映り込んだカメラ、キャノン5Dの存在である。水槽の映像を捉えているキャノン5D。それは、イメージを統括するある種の唯物的存在なのだが、わたしたちが見ている映像はキャノン5Dで捉えた映像であるはずなのに、ここには眼の複層性とでもいうべき状況が発生している。これは、わたしたちは何を見ているのか、という問いでもあり、わたしたちは何も見ていない、あるいは見えない(=盲目性)とも理解できる。〈国家〉や〈国民〉とはこのように捉えがたいものであり、アグネルによる朗読で示されたように、国家についての〈感情をわれわれは知らず〉なのである。このように考えると、『水槽と国民』が朧げながら見えてくるような気がするのである。

最初は自由に泳いでいた金魚が、やがては集団となり水面に浮かび上がろうとするストローブの小賢しい演出も記しておこう。これを〈国民〉の危うさと読んでみた。

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

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