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【映画評】 濱口竜介+酒井 耕『なみのこえ気仙沼編/新地町編』『うたうひと』 3.11を現在時制に接続するシンプルな手法の創出

濱口竜介+酒井耕による東北記録映画三部作は次の作品群からなる。
第一部『なみのおと』(2011)
第二部『なみのこえ気仙沼編/新地町編』(2013)
第三部『うたうひと』(2013)

2011年の3.11東日本大震災後、濱口竜介と酒井耕は宮城県に赴いた。
宮城県は津波被害を最も大きく受けた地域のひとつなのだが、両監督は廃墟となった被災地の現状や被災者の惨状そのものを撮ることをあえてしなかった。二人の監督は数年間にわたりその地に足を運び、被災者の声に静かに耳を傾け、ドキュメンタリーのあらたな方法を見出していく。それは、驚くほどシンプルで親密な手法だった。

以下の文は第二部、第三部の覚書である。

第二部『なみのこえ気仙沼編/新地町編』(2013)について(覚書)
本作は2012年1月から2013年3月に亘って行われた宮城県気仙沼市に暮らす7組11人の対話形式インタビューの記録であり、東北記録映画三部作の第二部を構成する。

キムチを製造する老舗の経営者と従業員、水産加工業の夫婦、和服販売店の女主人と従業員、老齢の漁船船長と濱口竜介監督、大阪出身の母と娘、運送屋夫婦、若い男性と酒井耕監督。監督との対話を除いて、それぞれのペア、それはまさしく対話の原素 “対” であるカップル、兄弟姉妹、友人たちは互いに気心の良く知れた仲だが、対話は、初めて出会ったかのごとく、年齢と氏名を述べるという自己紹介から始まる。それにより、それぞれのペアは関係のある種のリセットである「邂逅」が出現する。そのことにより、フィクションめいた様相を意識的に生じさせる。それは、見知らぬ二人が3.11について語る、いわゆる仮構された現場に遭遇するという、見る者へのフィクショナルな仕掛けでもある。対話が進むにつれ、対話者が夫婦であったり、経営者と従業員であったりと、その関係が次第に分かってくる。関係が明確になるに従い、冒頭のフィクショナルという事態はドキュメンタルという様相を露にしはじめる。そして3.11の受け止め方やその後の生活についての、それぞれのズレや共感も次第に明らかになる。

さらにこの対話形式には、もう一つの仕掛けがある。対話者は向かって座っているのだが、目の方向の軸がわずかにずれている。つまり、各自の正面に対話者はおらず、そこには対話者ではなくカメラが置かれている。一台のカメラによるデクパージュではなく、二台のカメラによる撮影である。これは、小津作品に見られる視線の不一致をよりシンプルに形式化した映画文法の創出ともいえる。そのことにより、カメラのパンを必要とせず、二人の連続した対話を捉えることができるのである。

対話形式で二人の人物にカメラの前で語ってもらう。そのこと事態がすでにフィクショナルな行為なのだが、そのことをアプリオリに引き受けることで、新たなドキュメントの表出に、わたしたち観客も遭遇することになる。その中で、被災者の未来のみならず、過去をも掘り起こすことの新たな試みとなる。それは、カメラの前に佇む人、それはいま在るという存在の、現在性の再確認でもある。ロラン・バルトが写真について述べた(「それは、かつて、あった」ça a été.)ごとく、映画におけるカメラでさえも、いま在るものしか写さなし映せない。どのような仕掛けをしたとしても、カメラの前では、すべてが現在……(*)フランスの映画監督フィリップ・ガレルの発言を想起してもいい……であり、資料(ドキュメント)であるという、ごくごく当り前の帰結を濱口と酒井の両監督は呈示する。その、ある種の簡潔な作業により、3.11は終らないという、事態の現在性を表出しようと試みたと言えるだろう。

そして、とりわけ本作が感動的なのは、対面する対話者の真正面にカメラは据えられ、カメラが捉える二人の関係性の記録というだけではなく、カメラを真正面に据えることで生じる対話者の位置的なズレという唯物的な分割で、いわば顔の正面性が対話者に微妙な間合いや息づかいをも生じさせるという、新たなドキュメンタリーの創出ともなっていることである。これは、新たな映画美学の記憶すべき発見である。

(*)フィリップ・ガレルの発言を引用しておく。

映画は、絵画や文学のように直接的なものではない。かつてあった過去が演じられているということは、つまり、ゼロに戻ることと同じだ。(中略)もし過去を再構築するとしても、それが映画である限り直接的なものではありえない。あるひとつのシーンは現在においてしか演じられることはない。撮影の瞬間、それは過去ではなく現在だ。僕の作品が現在にあるとこを理解するのはそんなに難しいことではないはずだ。

雑誌「nobody」Vol.37「フィリップ・ガレルへのインタビュー」p.7.8


第三部『うたうひと』(2013)について(覚書)

濱口と酒井は3.11以降、仙台に居を移しドキュメントを撮る中で、東北地方伝承の民話語りに出会う。『うたうひと』はそのドキュメント・フィルムである。ここでは、『なみのこえ気仙沼編/新地町編』で展開した方法論を継承している。

語り手は宮城民話の会のメンバーである伊藤正子、佐々木健、佐藤玲。聞き手は小野和子。すべて70歳代から80歳代。語り手のひとりは、子どもの時に母や祖母が語ってくれた民話が、40歳の頃、突如甦ったという。民話を語ることは、民話自体がその周辺に纏っているものならず、それぞれの語り手の幼少期の記憶をも語ることでもある。とつとつとした素人の語りから、言葉と言葉の間で揺れ動く、まるで語り手に刻まれた皺のような時間の深さが立ち現れてくるようだった。

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

東北記録映画三部作(予告編)


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