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《七里圭作品・鑑賞日記》(Vol.2)『DUBHOUSE:物質試行52』

(見出し画像:七里圭『DUBHOUSE:物質試行52』)

これは《七里圭作品・鑑賞日記》(Vol.1)の続きです。

作品タイトル以外に鑑賞した日付と会場を付した。それは、七里圭作品においては、同名の作品であっても、上映会場により内容が異なることもあり、また、上映形態や会場の光や音の回り方による印象の違いがあるからである。その意味で、七里圭作品ではタイトル、日付、会場は不可分である。

2014年6月5日
『DUBHOUSE:物質試行52』16分(2012)@同志社寒梅館ハーディーホール
監督:七里圭、鈴木了二、音楽:池田拓実

2010年東京国立近代美術館で開催された「建築はどこにあるの?7つのインスタレーション」のひとつとして展開された建築家・鈴木了二の《物質試行51 DUBHOUSE》の記録映像である。本展の建築とアートに関連し、批判を含めたさまざまな評価があった。だが、七里圭監督の本作に、そのことが反映されているかは、本展を見ていない私には判断がつかない。だが、『DUBHOUSE:物質試行52』を見た限り、建築は闇を生み出す装置でもあるという七里監督の眼差しを基底としている。鈴木了二《物質試行51 DUBHOUSE》を純粋に形態として(光や闇も含め)捉え、本展の社会的な批評の外側に身を置き、その上で新たな解釈を加えたメタの眼差しを向けた作品になっている。東京国立近代美術館での展覧会の翌年、3.11(東日本大震災)という瓦礫と(日本社会と精神の)崩壊の闇を経験した、記録映像を超えたメタに七里監督は批評の立ち位置を決めたことが本作から立ち現れている。

七里圭監督作品のHPには次のようにある。

七里は、展示作品を撮影した光の部分と同じ時間の闇を冒頭に置き、その中に、鈴木が描いた被災地のドローイングを沈ませた。映画館は、闇を内在した建築である。その闇から浮かび上がろうとする映画は、映画館に放たれる光であると同時に、祈りであるかも知れない。これはメタ映画であり、歴史的出来事への応答でもある。

(「Kei Shichiri HP」)

本作にこの説明以上の解釈を加えることは不要なようにも思えるのだが、私なりの覚書を記しておきたい。

その前に、鈴木了二《物質試行51 DUBHOUSE》に関する五十嵐太郎による文から引用しておく。

部屋の高さいっぱいのインスタレーション《物質試行51 DUBHOUSE》が展開する。
隙間から内部をのぞくことはできても、そこに入ることはできない。部屋らしき空間だが、なにかプロポーションがおかしい。これは三つ並ぶDUBHOUSEの小さな模型が示すように、縦横を均等に縮小せず、かたちを操作し、変形させた結果、生まれたインスタレーションである。つまり、それぞれの場所の関係性は同じままだが、人が暮らすという機能主義からは逸脱した空間になってしまう。…(中略)…物質試行51はもはや建築を代理する模型ではない。それ自体が独自の存在価値をもつ何ものかとして出現している。

(10+1web(LIXIL出版))

「建築は闇を生み出す力がある」。これがdubということである。建築が闇をつくるのではなく、偶然にも闇を発生させる力がある。発生装置、もしくは闇の複製装置、re-闇としての建築、つまり、建築は闇の表象といえる。それは闇に限らない、たとえば建築は物質であるがゆえにマテリアルサスペンスを誘発(re-運動)する。誘発であることで完璧な複製ではないというre-サスペンス。つまり、建築は差異に満たされており、そのことでサスペンスとなる複層的発生装置となる。

さて、「Kei Shichiri HP」から用語「メタ映画」を引用し、私も用語「メタ」と口を衝いて出してしまったのだが、本作の「メタ」とはいかなる階層の「メタ」なのだろうか。たとえばメタの階層として“保守/前衛”を設定してみる。用語「前衛」はすでに保守的様相を感じさせすっきりしないのだが、とりあえず「前衛」と表現しておいた。
メタ保守とは、すでにある映像とテキストの要約手法による世界の抽象のことであり、メタ前衛は内部にそれ自身に対する批判を含むものとしての表出と理解してみる。メタ前衛の理解はレフ・マノヴィッチの「メタリアリズム」を想定している。マノヴィッチにおいてメタリアリズムは古典的リアリズムの対概念としてあり、「イリュージョンとその破壊、あるいは観客のイリュージョンへの没入と観客への直接的な語りかけの間の揺れ動きに基づく」(レフ・マノヴィッチ『ニューメディアの言語』ちくま学芸文庫)ものである。本作においては、作品(鈴木了二《物質試行51 DUBHOUSE》)への伝統的な眼差し(要約による抽象)を脱却し、テクストという新しい概念を打ち立てること、つまり「作品からテクストへ」(ロラン・バルト)へ向かう眼差しの創出となっていることは、本作についてすでに述べた断片的な記述から理解していただけるのではと思う。その意味で、本作のメタの階層は、眼差しによる要約・メタ保守ではなく、メタ前衛という、新たな創造なのではないかと思う。それが、「Kei Shichiri HP」において述べられた「メタ映画」の意味なのだと思う。もっとも、そのようなことはそれぞれの鑑賞者が判断することであり、私が断定するものではないのだが…。

鑑賞した日のメモをここにコピペしておく。
アクースモニウム、音、ゴダール、DUBHOUSEのDUB、音の在り方。
ゴダール映画の持つ光や音の物質性。映像と音との融合によるSonimageソニマージュ
3.11(東日本大震災)を経過したことによる『DUBHOUSE:物質試行52』。
アクスマ(アクースマティック)…幻聴的存在。
映像に張り付いている音を分離させる、引き離す、あるいは消滅させる。→これは七里作品が「音楽と映画との関係性」に発展する予兆である。
音の物性→フィルムに刻まれることによる物性。

デジタル(→光)とフィルム(→陰・陽・影)→『DUBHOUSE:物質試行52』の上映形態について。
本作の主題系のひとつである「闇」に関連し、“デジタル/フィルム”上映形態による興味深い話題がある。
“デジタル/フィルム”上映により「闇」の現れの様態が異なるということ。
本作は前半8分間はぜんぶ闇として現れるのだが、黒としての闇なのか、影としての闇なのか、ということである。それが“デジタル/フィルム”の違いによるのである。
七里監督によると、ドイツで上映した際、手違いで35ミリフィルム上映ができない劇場があてがわれた日があったという。仕方なくデジタル上映となったのだが、前半8分間の闇に、観客は真っ黒な画面を見続けることとなった。いったいなにが映っているのか。ただ音が鳴っているだけの黒い画面。建築家・鈴木了二が描いた被災地のドローイング、原発を覆うダブハウス、瓦礫の中のダブハウスが闇として映っているのだが、観客には黒い画面でしかない。「私たちはなにを見せられているのか?」
フィルムには黒ではない闇が確実に映っている。それが見えないのは、デジタルが光による投影であり、フィルムは影による陰陽表現のグラデーション表現に起因するからである。デジタルはブラック・ライトであり、フィルムは影による現れなのである。
デジタル世代は映画を意識した時からブラック・ライトの世界であり、その前の世代はそのどちらも経験している。
そういえば、どちらも経験世代である私は学生時代、衝撃的な「映画=影」体験している。なにも写っていないループ状の透明な8ミリフィルム。映写機にかけられたフィルムはループ運動をする。スクリーン上に現れるのはフィルム上に結晶化された映像ではなく、映写機の光源から透過された瞬く光。しばらくその状態が続く。そしてループフィルムに指紋をつける(このときはじめて作者が刻印される)。フィルム上に定着された指紋はスクリーン上に投影され、指紋は次第に増えていく。次にフィルムにパンチで穴をあける。指紋と同じように、あけられた穴はスクリーン上に投影される。穴で破損したフィルムは穴が増えるにつれ、やがてはフィルムの状態を失いはじめ、単なる廃棄物質の破片となり、床に散らばる。これはフィルムの消滅であるばかりではなく、映画の発生と消滅の物語でもある。このときはじめて、私は映画とは影を見ているにすぎないのだと思った。指紋の影、パンチの影。
デジタルには影もなければ破片となる過程(=時間)もない。それが、デジタル(→光)とフィルム(→陰・陽・影)→『DUBHOUSE:物質試行52』の上映形態の重要性である。実は2014年3月、新宿K’sシネマでフィルム上映があったという。しかも、FUJIフィルムとKodakフィルムの2つのタイプの上映。なんと贅沢な!京都に住む私は見ていないのだが、2014年6月5日の同志社寒梅館での上映がデジタル/フィルム、どちらの上映だったのか、記憶にない。

“デジタル/フィルム” については七里監督の連続講座、下記web
『映画以内、映画以降、映画辺境』第1回「そこにあるのかないのか、それは問題ではないのか?」を。

七里圭作品ではないが、『DUBHOUSE:物質試行52』関連で2015年11月5日、同シリーズ作品
鈴木了二、三宅唱共同監督『物質試行58: A Return of Bruno Taut 2016』@同志社寒梅館ハーディーホール
を見ている。
七里圭作品と通底するところがあり、その日に書いた《映画日記》からコピペしておく。

リドリー・スコット『ブレードランナー』(1982)。フランク・J・シャフナー『猿の惑星』(1968)のテイラー船長。浦島太郎。廃墟。瓦礫。未来都市。年号。ポジ・ネガの反転。光の横溢。モノクロの壁面。グラデーション。豊かな黒の壁面。
過剰でも過不足でもない、壁面に鈍く反射した光のグラデーション。ローアングルでぐるっと壁面を舐めるように撮る。ロボット型掃除機ルンバによる撮影。
建築は外部から光を導入することで闇を作る。この場合の闇を作るとは、建築の自立した行為ではなく、建築内部に光が差し込むことで闇が発生するという、他律的行為であり、闇とは建築の自律性を決定的に揺るがす痣のような存在である。それゆえ、建築の闇には3.11が必然的に潜むことになる。
「侵入してくる闇」→つげ義春。
突如挿入される曲、30年以上も前に解散したザ・バンドのアルバムから私の好きない一曲。音源に数センチでも近づこうと、思わず体を前のめりに。

《七里圭作品・鑑賞日記》(Vol.3)七里圭作品小品集『時を駆ける症状』『ASPEN』ほか
に続く

(映画遊歩者:衣川正和 🌱kinugawa)

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