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『映画以内、映画以後、映画辺境』第1回「そこにあるのかないのか、それは問題ではないのか?」2014年2月2日 登壇者:吉田広明、七里圭

七里:今日はこのような会に来ていただきましてありがとうございます。七里と申します。今日は、映画批評家の吉田広明さんをお招きしました。吉田さんは、作品社から『B級ノワール論』や『亡命者たちのハリウッド』など【その後『西部劇論』も上梓】クラシカルな映画の論考を出版されつつ、現在の日本映画についてもキネマ旬報などで批評されているので、アップトゥデイトなことも含めてお話を伺えればと思ってます。初めに、僕の方からこの会の枠組みと成り立ちをちょっと説明いたします。「映画以内、映画以後、映画辺境」とはなんぞや、といいますと、僕は今までもcharm pointという団体名で『眠り姫』などを自主制作してきたんですけど、これから実験的な映画製作を始めようとしていまして、その端緒となるライブを、まだ音楽のライブとは断定できないんですが、四月二六日にここ(アップリンク)でアーツカウンシル東京の助成を受けてやることになりました。それに向けて、それを受けて関連講座を催していこうというわけです。実は、第一回と銘うっていますが、第0回、或いは準備回に相当するようなことを去年の十月【2013年10月24日】に一度やっていまして。その回で何を話したかをかい摘んで話しますと、要は(受付でお配りした映芸に書いた文章にありますように)この十年くらい前から、作られている映画、上映されている映画に対して、なんか違和感を感じ始めたんです、ぼんやりと。それは何か得体の知れない気持ち悪い感じで、何が気持ち悪いかというと、映画が映画じゃないような気がしてきたんです。(講座が)始まる前にBGMとしてかけていた曲は、細野晴臣さんの「ボディ・スナッチャー」という曲なんですが、これはドン・シーゲルの映画で『恐怖の街』というのがありまして…
吉田:宇宙から来た宇宙人に人間が乗っ取られちゃって、その人の顔なのだけど全然違う人になっているっていう、それに子供が気がついてっていうサスペンス的なSF映画ですね。

七里:はい、そのスナッチされた、乗っ取られた人たちが出てくるSFのようなことに、映画がなっているのではないか。同じ映画なんだけど昔知っていた映画と違うものになってるんじゃないかっていう、本当に微妙な違和感を感じていて。それはどういうことなのかを違和感を表明すると共に、そのことについて語ろうとしたわけです。でも、そもそもこれは、僕一人なんかで担えるような小さな問題じゃないので、あらためて識者を迎えて、映画がどういうことになってきているか、映画とはどういうものだったのかについて、いろいろお話を伺いながら、その違和感を探ろうという趣旨で、一回目を始めようとしています。
吉田:僕が呼ばれたのは、ある程度今の日本映画について批評を書いているということもあるだろうし、あと「B級ノワール論」という一番最初に出した本が、DVDを見て書いている。実はそれだけじゃないんですが、ある程度デジタル環境の中で出た著作という意味にとられていて、そういう意味もあって丁度端境にいる存在として呼ばれたんだろうとは思うんですが。ある程度僕も確かにそういう状況にいる、映画とデジタルの境目にいるっていうことで、ただあまり原理的に考えたことはなくて、今回初めてこのようなお題を与えられて考えてみて、結果を何とか出そうという程度で。本来はもしかしたら僕は新しい映画環境っていうのに関してモノを言うっていうのでは相応しくないのかもしれないけど、半分映画っていうのに足を置いていて半分デジタルっていう環境に足を置いているという中間的な存在ということで出てくる意味はあるのかなと思っています。
七里:その状況って、年齢とか世代関わらず、もう誰もが放り込まれている…
吉田:見る人間としては、殆どもうデジタル上映ですしね、今。フィルムで上映するってこと自体が珍しい状態になっていますし。そこでじゃあ映画を観るっていうことが、変わっているのか変わっていないのかっていうことなのですよね。僕も、どうもそれは変わりつつあるかな、とは思っていまして、それなりの違和感は共有しているのですね。ただ、僕はもうちょっと原理的に論理的に理論的に考えましょうかっていうスタンスでいくにしても、僕自体は表象文化論の出身とかではなく、映画を研究する立場の人間っていうわけではないので、あくまで評論家、批評家という立場で。
七里:今もう、さっそく表象という厄介な単語がでてきましたけど、それもおいおい聞きつつ…。で、今日参考上映でまず、鈴木了二氏との作品の『DUBHOUSE』を上映してみようと思っています。それには意図がありまして。この中に『DUBHOUSE』を観てない人の方が圧倒的に多いと思うので、あの…。
吉田:いや、分かんないですよ。実際フィルム上映で、特集上映とかで観たことがあるという方どのくらいおられるのでしょうか。あ、結構いるじゃないですか。

七里:そんなにいるんですね(笑)。
吉田:半分ぐらいはいる。
七里:えーと、じゃあフィルムで『DUBHOUSE』を観た方はハッキリ分かると思いますし、これからデジタルで観る方にはちょっとエクスキューズしないといけないことがあります。それは、デジタルとフィルムとどう違うのかの話って、どこまでやっても行きつくところないんですけども、端的なこととして映写機で上映するか、プロジェクターで上映するかっていう違いは確実にあると思うんですね。勿論、いろんなインターフェイスで見られるのもデジタル環境ではありますけども。映写機でフィルム上映することとデジタルでプロジェクター上映することの一番の違いは、“黒”なんです。“黒か影か”なんですよ。それは、一般的にデジタルの映画の黒ってなんかベタッとしてるとかいわれるのは、あれはどんなに精度を上げても機構的に全く違うことだからなんです。映写機で上映するときって、フィルムが前に掛かっていてそこに後ろから光を当てるわけですよね。それの影がスクリーンに映る訳で、だから、黒っていうのは影なんです。
吉田:光があってそれに対してできる影。
七里:はい。しかし、プロジェクターで再現している影、黒っていうのは、正確に言うと違うんですけども、ざっくりいえばブラック・ライトなんですよ。
吉田:光の一種っていうか。
七里:そうなんです。光を当ててるんですよ。で、『DUBHOUSE』は前半8分間、全部影なんですよ。
吉田:まぁフィルムだと影なんだけれども…。
七里:デジタルに変換されるとブラック・ライトになってしまう。
吉田:光のひとつだと、光の色味のひとつだと、そういう風になっちゃうと。
七里:はい。そうなるとどうなるかっていうと、データ上では勿論微細な信号、細やかな信号が再現されてるんだけども…ここからは観た人にしか伝わらないんですけど、全くなんも見えないです。影を映した時に初めて、ときどきボワッと見えるものが、全部ブラック・ライトだから、ここ(スクリーン)に、スクリーンのこの大きさのなんかこうボワッとした暗い光が映っているだけになっちゃうんです、最初の半分は。だから、初めて『DUBHOUSE』を観る方には、すみません。
吉田:フィルム上映は実際やりますからね。今、宣伝しちゃいます。『DUBHOUSE』三月一日に。しかもこの人ですね、FUJIフィルムとKodakフィルムの2タイプのフィルムで上映やるっていうんですよ(笑)。それを二つ連続で上映するんでしょ? まぁ偉いと思いますけど。
七里:すみません…。
吉田:一応こういう上映会があるので、フィルムで観る機会もありますので、是非これ行っていただければ。まぁでも一日しかやらないのかな?
七里:いや、一から一四までやってます。レイトショーで…。
吉田:一日から一四日まで二週間やるんですね。じゃあ随分機会はありますね。しかも新作もついてるので。
七里:ご親切にありがとうございます(笑)。

吉田:じゃあとりあえず見ますか。
七里:ということで、まずは見ていただきます。

~『DUBHOUSE』上映~【プロジェクターでデジタル上映】

吉田:やっぱり、確かに、見えないのは見えない、ですね。
七里:見えない…ですよね。黒と影は違うんだっていうことを、こんなに如実に表す映画だったというのは自分でも発見でして。多少べたっとするとかそういう微細な感覚は別として、他に比較対象する色があるときには、問題なくデジタル変換は機能するんだけども、全てが黒になるとやっぱり黒と影は違うっていう…。
吉田:判別できるということでしょうね。
七里:こういう上映をしたのは実は初めてではなくて、ドイツのヨーロピアン・メディア・アート・フェスイティバル(EMAF)で上映をしていただいたときに、一回手違いで35ミリフィルムがかけられない劇場をあてがわれた日があって、それで事前に連絡があったんで、今日と同じデジタル素材を持っていって上映をしたんです。このデジタル化は、フィルムのときから関わってる牧野貴君と一緒にやってるので、データ上は全く同じ状態に仕上げてくれてるんですけど、やっぱなんも見えないなぁと(笑)。で、Q&Aで説明をしたんですね、実は前半八分間、何を映していたのかを。
吉田:デジタルで見た人にしてみれば真っ暗なままずーっと八分間くらい…。
七里:ただ音が鳴ってるだけか、っていう風にしか思われないじゃないですか。それも癪に障るんで、「実はここには、全編鈴木了二氏が被災地を見て描いた常軌を逸したドローイング―原発を覆うダブハウスだとか、瓦礫の中にダブハウスしか建ってないとか。そういう絵や、静かな海や波や野の花を八分間全部に真っ黒に焼き込んでいて、それがときどき見えるんです」っていう説明をしたんですが、ふと思ったんですよ。「これ、嘘言っても分かんねえな」って(笑)。まあ言うのは憚りますけど、「これ実は福島第一原発を撮ってます。それを黒く焼き込んだんです」とか言ってもこれ、分からないだろうなあと思ったりして。
吉田:確かにフィルムで見た場合にも「何かが映ってるな」とは分かるんですけど、それでももしかしたら、そう言っても分からないかもしれない。
七里:確かに。で、デジタルで上映して映らない影についてだけではなくて、モノが映ってる後半部分についても面白いことがあって。クロアチアで上映したときのQ&Aで「これは何を撮ってるんだ?」ってプログラマーに観客を代弁するように聞かれたんですよ。そのとき僕は生真面目に、「場所は美術館で、展示されたインスタレーションだ」って答えてしまって。失敗したなと後から思ったんです。「これは人類が滅亡した後の1000年後の世界だ」とか言った方が真意に近いし、映っているモノについて語るっていうことは、ただそのものを説明するだけじゃないだろうと思ったりもして。
吉田:要するに、映像だけで観てそれで判断していろいろ考えるのは、映画観ている人は、慣れてる人はそうできるんだけど、特にこういった実験映画だと、実験映画のつもりで作ってるかどうか分からないけど、映像を観たときに「これなんだろう」っていう言葉でいってもらわないと分からない、不安だっていう人もいると思うんですよね。普通の映画であってもそうなのであって、イメージだけ見てそれだけ見て判断していろいろ考える人もいるだろうし、やっぱりそこに何か説明がないと落ち着かない人もいるだろうし。実際僕らも映像見てこれなんだろうって考えて「ああ、これはこうなんだ」って言葉で意味付けをして納得するってことはどうしてもあるんですよね。多分イメージっていうのは、イメージだけでは完結してないのかなぁ、と。それは、こういったフィルムとデジタルの関係だけでなく、映像見たときにそれだけで人間は多分自足できないんだろうと思うんですよね。どうしても、それってどういう意味があるんだろうって考えるんだろう、と。で、考えるからどうしても言葉で一生懸命考えるけど、映画自体もイメージと言葉でできているけれども、それを観たときに、見た人間がいろいろ言葉で考えて「これはどういうことなんだろう」という風に考えるものなんだと思っていて。
七里:だから映っているモノと、受け取るモノは違うっていうことなんですよね。
吉田:当然そのズレもあるだろうし、いろんな意味でのズレがあるんだと思うんですよね。そこでちょっとイメージと言葉との関係を考えないといけないのかな、と…。
七里:その辺からもう“表象”という難しい世界に入っていきつつあるんですけど。映画って、例えば舞台表現、目の前でやって見せるものとは決定的に違うじゃないですか。それを映した何か、映されたものが映って、それを観て「ああ、何々が映ってるな」っていう風に見るわけですよね。
吉田:僕は舞台にしても何にしても、やっぱりそれだけで完結しないって気がするんですよね。やっぱその中にどう解釈するかっていう風な働きがない感じはいかんと思うんですよね。
七里:今、“像”の話に踏み込んでると思うんですけど、視覚、見ること自体はもう、網膜に映ってる像を電気反応で脳が再現してるわけだから、この見えてる世界も全部“像”なんですよね。そういう意味では勿論舞台表現、身体表現というか、そういうのを観ることもそこに何かを読みこむことではあると思うんですけど、映画の場合と同じなんでしょうか。
吉田:舞台っていうのはやっぱり「場」ができてくるっていうのが大きいでしょうから、観客まで巻き込んで空気を作っていく、ということがあるので、映画にそういうことがないことはないと思うんですけど、やっぱり相当違うもんでしょうね。僕は舞台は苦手というか、上演されるもの系は苦手といえば苦手なんですが、そういうライブ感っていうか、そういうものを醸成するのが舞台だと多分第一義に来るとは思うので、映画と舞台というものは多分違うだろう。このへんの話はよく分かんないけど。
七里:例えば、映画って列車が飛び出してくるところから始まったわけじゃないですか。実際に「わー! 列車が来る」っていうのと、列車が来るのが映った映像を見るのとの違いといってもいいのかもしれないですけど…
吉田:列車が来るのを映した映像?
七里:つまり、最初に映画を観た、写真はもうあったけれど、それを初めて動かして見せたときに、見えた像と実際のものっていうのは明らかにやっぱり…。
吉田:列車そのものっていうか、現物っていうか。
七里:はい、違う?
吉田:違う、でしょうそれは、やっぱり。映画に関しては、実物そのものじゃないっていう、欠如してるっていうのが多分大きいのかな、と僕は思っていて、多分そこが表象という問題に引っかかってくるんですが。
七里:それについて、もうちょっと。
吉田:僕も現代思想とかでちょっとかじっている程度で、本当に血肉になっている知識ではないんですけども、ある程度精神分析的な話をすると…イメージというものがある、と。人間生まれたときにもうイメージの世界にまずいて、そこではもう自分と他人の区別がないような状態で、殆ど幼児的な、或いは動物的な感覚の中にいるわけですよね。そこの中ではもう「あるものはある」という状態、「ないっていうことがありえない状態」なわけですよね。もう存在しかない。
七里:「お母さんがいる」とか「おっぱいがある」とか。
吉田:そういう状態ですよね。あるものしか感知できない世界なんだけど、そこに唯一「あるけどない、ないけどある」っていうものがあるんだっていうことになるんですよ。
七里:ないけどある?
吉田:それがファロスです。男性器ですね。ある人もあれば、ない人もある。なんだろうこれ、という。
七里:なるほど、そういうことだったんですか、あれって(笑)。
吉田:僕が解釈しているのはかなり杜撰な図式かもしれないので、そこらへん詳しいところはもうちょっと偉い人の本を読んでもらいたいんですけど、僕はそういうことかなぁと思うんです。
七里:あるけどもない、ないけどもあるっていうのは、まさに映画だったりしますよね。
吉田:そうですね。そこから言葉の世界が生じてくるんだろう、と。
七里:すみません、飛びすぎましたかね。
吉田:そこから、いわゆる“象徴界”ってものができてくるんだと、言葉の世界に人間は参入するんだ、と。
七里:“象徴界”っていうのは、例えば「水だ」ってことですか?
吉田:言葉ですね。水って言葉があって、それがこれを表すんだっていう約束事の世界ですよね。
七里:「この水」と言えばこれを表せる。
吉田:表す、というシンボルになる。シンボルの世界ができあがってくる、と。だから人間は、イメージの世界とシンボルの世界を行き来しながら生活しているわけですけど、そこでシンボルっていうことを覚えちゃうと、ある言葉があるモノを表す、というのが社会的に約束事として成立するわけですが、言葉というものの根本には、モノそのものでは決してない、という絶対的な限界がある(あるけどない)。しかしそれと同時に、言葉を発すればそこにないモノをも呼び出してしまえる、ということができるようになる(ないけどある)。シンボル化によって人間は、現実を表象できる能力と同時に、嘘をつく能力も手に入れたわけです。
七里:映画を例えにしてもうちょっと噛み砕くと…。例えば、リンゴが映っているとする。でも、それは映っているリンゴであって、リンゴではない。
吉田:実物との違いってこともあるけれども、それ以上に、映画という作品の中で、いろんな意味を持ちうる。例えば、映画っていうのは映像が一個の意味だけを表すわけじゃないないですか。それを繋いでいくでしょ、また。編集してくわけなので、映っているリンゴの意味がもしかしたらいろいろにモンタージュすることによって変化していくかもしれない、っていうこともある。
七里: どんどん加速してるような気がするのでちょっと巻き戻しながら話をしたいんですけど、僕は最初、舞台表現と映画の違いを、近づいてくる列車が映っているものと実際に近づいてくる列車の違いに置き換えて話を聞こうかなぁと思ったのは…うーんと、何だったんだっけなぁ?(笑)。
吉田:実物、モノっていうことと、映像化されちゃったもの、多分そこには欠如、実物そのものじゃないわけだから欠如が生じていて、人間にはそこの欠如を埋めようとする想像力が働くだろうと思うんだよね。で、実際リュミエールの映画、列車の映画を観たときに、あれだって音声がないわけだから、近づいてくるガガガガッていう音がするわけでもないし。
七里:あれ、本当にビックリしたんですかね?
吉田:したんだ、と僕は思いたいんだ。
七里:なるほどね。
吉田:そうじゃないとダメなんですよ(笑)
七里:でもこれすごく重要なことで、それってもう神話化されてるけども、「みんな避けた」ってところから映画は始まってるじゃないですか。臨場感みたいなものとは別に。そのスクリーンに映ってる光と影、今は光だけですけど、映るものにいかに感情移入させるかっていう意図は、もうそのときから始まってる、みたいな。
吉田:そうなんですね。
七里:信仰じゃないですか? それって。
吉田:信仰だけど、それは必要な信仰なんだと。実際ああいうアングルを選んでいるということね、半分プラットホームで半分線路があって、そこでガガガガーッと遠近法で近づいてくるっていうああいうアングル選んでいるということ。それから、列車が来るっていう場面を選んで撮ってるというと、そこかなり作為があるわけですので。
七里:もう演出ですよね。
吉田:演出なんです。それができてるから映画だと思うんですよね。何を映すにしてもどっか場所を選ばないといけないし、ある瞬間を切り取らなきゃいけないんで、やっぱりどうしてもどういう構図を選ぶのか、どういう瞬間をカメラに収めようと思うのか、っていうそういう映画の作り手の意思が働いている。それがないと、多分映画と言えないのかな、と僕は思う。
七里:例えば、その神話の列車がですよ、本当にただ通っただけのものだったら、驚かなかったかもしれない。
吉田:しれない、ですね。だって、それを横から、プラットフォームから、線路に向けてカメラを置いて右から左に来ました、つったら驚かないでしょ、やっぱり。違う?
七里:(笑)なるほどね、今日は本気で僕のいろんな疑問を解消したいんですけど、解消できないとは思ってるんですけど(笑)、そのひとつ、映画がどこから来たのかということについて言えば、まず“像”が、映ってるものが驚かしたんじゃなくて、驚かそうとする意図が驚かしたっていう…。
吉田:僕はそう思ってるかな。だって、表象である限りの映画にはどうしてもモノ自体には到達できないので、それに到達する為のある程度の作為を働かさないと、そこに驚きなり感動なり情動なりは生じないんじゃないの?って僕は思ってるから。
七里:それはすごく重要なことで、後の方で話そうかなと思っていた話題に行きつつあるんですけど、フィルムで撮ってた時代と(デジタル)ビデオで撮ることが当り前になってきた時代の一番の変化って、ビデオは「映ってしまう」ことだと思うんですよ。
吉田:それは僕は映画でも同じだと思うけどな。今回いろいろ本読んだりしてる中で、吉田喜重の小津論があって、あれで小津がこう思ったんだろうって吉田喜重が言ってることだけど、映画ってカメラを置いて回しちゃえば撮れちゃう、と。そのことに多分小津は絶望したんだろう、と。そういう絶望のゼロ時間っていうのがあったから小津は小津になっていったわけなんですけど、そういう撮れば撮れてしまうことへの絶望っていうのが、デジタルで撮ってる人、撮り始めちゃった人には、もしかしたら希薄なのかもしれないっていう気がして。映画でもあるはあるんですよ。カメラ置いて回しちゃえばそれは写っちゃうから。で、それをモンタージュすればなんとなく映画に見えちゃうっていうことがあるんだと思うんですね。それに小津は絶望したってことを言ってて。そういう絶望を、今映画を撮り始めてる人が持ってるのかどうかっていうのはもの凄く僕は疑問に思っていて、そういうことを、もしこの中で映画を撮ってる方がいらっしゃれば考えてもらいたいなぁ、と思っているんですけど。
七里:ということは、勿論フィルムだって回して、露出とか設定すれば写っちゃうものですよね。実際ビデオのように一緒に音は録れないから、それはサイレントなんだけども、後から音を合わせる。そういう違いはあるとしても、回しっ放しの作品ってあるにはあるじゃないですか。例えば、ウォーホールの『エンパイア・ステート・ビル』とか。
吉田:そうですね。
七里:あれは、どう?
吉田:あれの場合はあれの場合でまた、編集によってできあがっている映画に対する観念的なアンチテーゼってこともあるだろうから、それはそれで置いといて。やっぱりカメラ、フィルムというので撮影するっていうのは相当面倒くさいわけじゃないですか。機材自体もデカいし、なんとなく撮っちゃっただけでもフィルムが何フィートも回っちゃってる。で、それを現像しないといけない、更にそれを切って繋げないといけないっていう。で、またカメラだからどこの位置に置くかっていうのも相当考えないといけないし、じゃあどれだけ回すのか、被写体に向かってどこにカメラを置くのかも大変だし、それだけで写んないでしょ? 照明もしないといけないし。そう考えると、フィルムはやっぱり相当面倒くさいもので、そういう面倒くさい、物理的にさーっと回しただけで何フィートって回っちゃうようなフィルムを、回すことができる人っていうのはやっぱり特権的な人だっていうのはあると思うんですよね。その点やっぱりデジタルだと、確かに撮る位置を決めないといけないにはいけないんだけど、やり直しができたりとか、とにかくタラタラ回しちゃえ、と。あとで編集すればいいんだからっていう風になっちゃうと。また、照明にしてもあとからコンピュータ上でいじればいいじゃんと。感度を増すとか減らすとか、ぼやかすとか、全部できんじゃん、ということになっちゃうと。非常に曖昧なこと言ってますけど、そういう面倒くささがなくなっちゃうっていうのはやっぱり、敷居が低くなっちゃうっていうのはあるんじゃないのかなぁって思いますね。
七里:なるほど。つまり、僕が最初に言った、何か変わってきてるんじゃないか、映画が“映画のようなもの”になってきているのかもしれないという違和感については、吉田さんもそう思うけれど、その背後にあるのはフィルムかデジタルかという、撮ってるメディアの違いではないと。メディアが人間にかけてくる負荷というのかな...写すことにたいして努力を強いられる、そういう負荷をかけられながら撮ってきた人間が撮ったものにたいして、割と敷居が低くなっている、あるいは敷居が別のところにあるというか。僕の場合パソコンが苦手なんで非常に敷居が高いんですけど、違うところに敷居の高さがあって、つまりそういう、育ちの違いみたいなものが背景にあるんじゃないか。そういうことですか?
吉田:そうですね。やっぱり、カメラ、フィルムの場合だとそういう面倒臭さがあって、そこにどうしても「俺は映画を撮るんだ」という「(俺は)映画監督なんだ」というかなり強い意志が働かないと、この面倒くささは越えられないんじゃないの?っていうことなんですよね。やっぱりアングルの問題だとか、どれだけそれを回すのかということとか、更にそれを切って繋いで一つの作品にしていく、というそこにはかなり構成しようという意思が働かないといけないんだろうな、と。ただ、デジタルになったから、じゃあそれが薄れてはいるだろうけど、やっぱりカメラどっかに置かなきゃいけない、カメラ位置を決めなきゃいけないんだし、そこで役者に芝居をさして、どこからどこまで撮るのかっていうことは「よーい、スタート」でやんなきゃいけないんだし、例えパソコン上であっても切った貼ったはやんなきゃいけないんだし。だから形骸化はしてるかもしれないけど、映画としてそれを構成する意志さえあれば、デジタルだろうとなんだろうと映画になるんじゃないかっていう、逆にそう思うんですよね。
七里:僕もそういうことかなと思ってた時期もあったんですよ。
吉田:しかし、そうではなくなった?
七里:そうなんですよ。ゼロ年代の終わりくらいっていうのは、やっぱり育ちが変わってきたことがね、映画を撮るということの意味合いが変わってきて、で、それが作品を変えてきてるのかなぁと思っていたんですけど、そうすると、「昔はもっと~、昔の人間は~」みたいで面白くないっていうか、面白くないからっていうわけじゃないんだけど、そういうことなんだろうか?っていう風に今は思いだしていて。そもそも映画が無かった時代、映画以前っていいますかね、映画以前の時代と、映画ができてからの人間の感覚っていうのは変わってるんじゃないですか? “想像界”から始まった人間が象徴することを覚えて、像の中に意味を読みこむことの感覚が、映像の出現によって何も変化がないとは考えにくい。それまで人間は、多分水面に自分の姿が映ったり蜃気楼とか、その程度でしょ。鏡っていうものが普及したのも大分歴史は浅いと思うんで、なにか自然に映ったものでしか像というのは見てなかったわけですから。で、映画だって随分変遷があるじゃないですか、その後に。最初は音が聞こえなかったのが、声まで発するようになって、それで随分映画の表現は変わりましたよね。サイレントからトーキーへと同じぐらいの変化は、デジタルになって起きてきてるんじゃないか、感覚変容と大袈裟に、安易に括りたくはないんですけど、像を見ることの捉え方が変わってきてるっていうのかな。それがさっき『DUBHOUSE』で黒と影がこう違うんですよ、って言ったら「あ、違うね」って、こういう極端なやつ見るとハッキリするんだけども、黒も影も≒、≒は=みたいな風になっていくこと。もっと先走って言っちゃうと、一番大きな変化ってそれまで映画も音楽も美術もそれぞれ表すマテリアルが違ったと思うんですよ。映画はフィルムで撮るとか、音楽は楽器を鳴らすとか、美術はカンバスに描くとか絵の具を使うとか、それがデジタル化によって全部ハードディスクに記録するようになった。
吉田:全部パソコンですんじゃうね。
七里:物質があった時代があったわけですよ、フィルムだとか「これに光を当てると感光して像が出ます」っていう物質が。絵の具があります、絵を描きます、とか。それが全部インターフェイスっていうやつに向かってピコピコやる(笑)、古臭い言い方だけど、そういう風になってきたことが、像に対する捉え方を変えてきてるんではないかっていう気が…。
吉田:そうですね。フィルムとか、楽器或いはレコードとか、記憶媒体の話なのかなぁっという風に僕も思ってたんですよね。フィルムだったり本だったりレコードだったり、記録媒体自体がモノであって、そのモノであったということが大きかったのかなぁと。それがモノじゃなくなってデータになっちゃってるっていうことなんで。また、媒体のできあがりが遅ければ遅いほど早くデジタル化されちゃう。例えばレコードがデジタル化されたりとか、殆どもうデジタル・オーディオ・プレイヤーでしか聞かない、僕もそうなんですけど、CDをパソコン上でデータにして、データをウォークマンでしか聞かない状態になっちゃってる。それからフィルムがデジタルになって、記録媒体にしてもDVDになっちゃって、そういうこともあって、更にじゃあ本はどうなのか、やっぱ活字メディアって相当古いだけあってなかなか電子化に抵抗してきた気はしますし、僕自体多分電子図書で本読まないだろうなぁと思うんですよね。
七里:でも、最近知り合いの赤ちゃんが、透明なもの見るとこうやって(スマフォの画面をタッチするような動き)やるらしいんですよ(一同笑)。そういう世代が、こうやってやればなんか変わるみたいなのが、生まれたときからあるとどうなるんですかね。
吉田:本というもの自体がなくなるという気はあんまりしないんですけどね。
七里:僕もね、なくなりはしないと思うんですよ。実際、手書きした書みたいなものは永遠に残るだろうし、音楽だって頻繁にちょっとした回帰をするじゃないですか。やっぱり生が最高、アンプラグドだとか、デジタルよりアナログのカセットテープの方がいい音だとか、回帰して残っていったりする。僕自身も『DUBHOUSE』のころは、「もうフィルムでしかやらん」みたいにやたらめったらこだわっていたんだけども、そのころがまさに、撮り方や育ち方の違いなんじゃないかと思ってた時期なんですよ。でも今は、そういうことでもないというか…。
吉田:そうですね。こうやって七里さんと打ち合わせしたりとか、飲み会とかで喋ったりしてるときってやっぱり、七里さんも全てがフラット化してるんじゃないかっていうこと言われて、「いや、そうでもないんじゃないの」と僕は言ってたわけなんですけど。だから、時間の層っていうのは、多分いろんな層が入り混じってて、もう一方向的に全部そっちの方に流れていくものではなくて、昔のものが回帰してきたりとか、そういう形でいろんな時間の層が…。
七里:アナクロニズム?
吉田:そう、それを僕はアナクロニズムと言ってるんですけど、そういうもんなんじゃないのって思ってて、だから、新しい人だって「フィルムの質感が面白いな」ということで、俺はフィルムだけでしかとらない、って人だって出てくるんじゃないのって思うし。
七里:そこでまた疑問なんですけど、そういう風に思ってフィルムを面白い素材として使うことと、それまでフィルムで撮られていたモノっていうのは…。
吉田:まぁ、違ってくるかもしれないけど…。
七里:映画はなくならないと、僕もそこは信仰的に思うんですけど、何もかもが情報になっていく社会が不可逆になってきていて、「そこにあるかないか」とか、問題ではないのかな。違和感の原因がそれなのかどうか分からないんですけども、あるかないかっていうことが物質として現れる表現と、それをゼロイチのデータにすることは、同じなのかな? でも自信が持てないのは、これはある御方が仰ってたんですけど、そういう表現さえもインターフェイスで考えると、例えばパソコンで文字を打っても、見ているものは文字だから変わらない、と。それはデジタルではない、信号打ってるわけではない。コンピュータの中では、ハードディスクの中では信号として記録されてるけども、考えてる人間は文字を見て文章を書いてるから、それは全然変わらない。全然とは言わなかったけど、デジタルではない。これを言っていたのは実は高橋悠治さんなんですけれど、それと同じように映画もモノを見て光を見て撮って映すわけだから、そういう意味ではどうしたってデジタルにはなり得ないんですよ。人造人間というか、CPUで動いているアンドロイドとか、コンピュータが作りはじめない限り。でも、それはそう思うんですけど…ここから言い淀んでくるんですけどね。打ち合わせをぶっちゃけるようでアレなんですけど、表象体系、表象するっていうこと自体が、変質し始めているんじゃないか、と吉田さんは思うみたいなことを言ってましたよね…。
吉田:なんとなくそう思ってる。
七里:その辺もうちょっと今の話の流れで聞きたいんですけど。
吉田:とりあえずデジタル化って言っとくけど、デジタル化が起こったことが、サイレントからトーキーになったくらいの変化があるんじゃないのみたいなことなんだけど、もっと大きいかもしれないなぁと思うんですね。つまり、表象っていうことでいうと、映画もそうなんだけども、文字で書かれた文学もそうなんですよね。
七里:表象って何ですか?
吉田:表象っていうのは、あるモノによって別のものを表すっていうことだから、言葉もそうだし、イメージを構成して作り上げる映画もそうなんだろうし、実物、モノそのものってのは人間には捉えられないってことになってるわけですよ。何らかの媒体を通さないと、捉えられないってことかな。
七里:見るとかそういうことでも?
吉田:見ることも、だって人間が…。
七里:でも、触ったりすると(こう、ある…)
吉田:触ってモノがある、って感覚自体だって、なんか脳に刺激を与えればできるかもしれないし。だからモノ自体には人間は到達できない。何らかの、体もそうなんだけど媒体を通してしか到達というか、扱えないと。
七里:そこがおかしくなると、精神病に…。
吉田:多分それを直に触れちゃうと、現実界に触れちゃうことになって、統合失調症になるなり、パラノイアとは最近あんまり言わないですけど、そういうものになっちゃうと。精神病になっちゃうんだろうってことらしいんです。要するに、人間というのは象徴界(シンボル)と想像界(イメージ)の中にいるしかないわけなんで、それである限り何らかの媒体を使ってモノに触れる、あるいは媒体を使って表現するしかないんだろう、と。
七里:それが、表象っていうことなんですか?
吉田:あるものによって、また別のものを表すということなんですけど。だから、どうしてもA=Aではないんですよね、表象っていうのになっちゃうと。水といったって、我々一応約束事でこれを思い浮かべるかもしれないけど、海の水もあるし川の水もあるし降ってくる水もあるだろうし、人によってそれぞれ思い浮かぶイメージも違っちゃったりもするだろうし。そこにズレがあって、そういうズレがあることが多分表象っていうものが持ってる力なんですよね。
七里:ズレることが…。
吉田:そこにズレがあるからこそ、人間、想像力を働かせるんだと思うんですよ。だから映画にしても、一個一個のイメージだけじゃなくてそれを繋いでひとつの作品にするわけだけど、そういうイメージを見て、我々はその裏でそれを作ってる作家、作者というものがどういう意図でこれやってんだろうっていう風に一生懸命考える、意味を考えるっていう、そういうことがあって、もしかするとそこで考え付く意味は、作者自体が考えてた意味とは違うかもしれないし、また違ってるからこそ面白いかもしれない。作者を越えるものが出てくるかもしれなくて、映画が表象であってそこにこういったズレが必ず畳み込まれてあって、そのズレを拡大していくことで想像力が働いて、だからこそ映画の解釈ってものができるんだし、だから面白いんだっていう。
七里:感動もするだろうっていうことですよね。
吉田:そこに想像力を働かせることがあるので、そこに情動が働いて感動するってことがある。もしかしたらそれは間違った感動かもしれないけど、それでもいいんですよ。映画観て何を感じるかってことはね。そういうことがあって、それは多分言葉であっても映画であっても音楽であっても変わらないだろうと思うんですよね。
七里:そういう表象体系ってやつが変質しているかもしれないと思う、っていうのはどういうことなんですか。
吉田:あるものが何か別のものを指し示してるかもしれない、っていう風に頭が働くようにはならない、というか。
七里:動物化してきてる、ということですか。
吉田:そうですね。あの…そこで何を言おうとしてたのか…(笑)。
七里:僕と同じことになってきましたね(笑) 。
吉田:まぁちょっとヤバいですね(笑)。
七里:休憩を入れるほど時間も残ってないですね。
吉田:何時まででしたっけ?
七里:あと最大四〇分くらいなんですけど、いったん休憩入れますか。皆さんも暑いですよね。

~一旦休憩~

七里:受付でですね、『MIRAGE』という映画批評誌がおいてあります。我々よりはかなり、息子の世代とは言わないけれど、若い世代が作っている映画批評誌がありまして、以前、映画のデジタル化に関してインタヴューを受けました。最新号とともにおいてありますのでよかったらお手に取って下さい。
吉田:表象ってものが成り立たなくなっているんじゃないのっていう話の続きを。さっき言ったようになんらかの欠如を抱えているものであって、表象っていうのは、見る側が想像力に当てはめて読み込んでいこうとする、裏になんかあるんだろうという信憑がある、ここにカメラを置いているのは何でなんだろう、このショットの次にこのショットをおいているのは何でなんだろう、映画が構成されている、構成の意図、裏があると言うことを読み取る、表象というのはそういうのを感知する働きなんだろうと思うんですけど、これが弱体化している。
七里:弱体化しているというのはどういう…?
吉田:具体的にいうと、最近やだなあと思うのは、やたら長廻しするとか、あまり構成する意思が感じられない映画がいっぱい出ているなあという感じがしていて、特にデジタルで撮っている若い世代の作品なんかにそれを感じるわけなんですよね。それはやっぱり構成の意思が弱い。あと、メジャーで作られている映画なんかにしても、非常に一本一本の映画が長くなってしまって、その都度その都度、ここ泣ける場面ですよ、ここハラハラする場面ですよ、そういうものの連続体で成り立っていて、これの裏に何か意味があるだろうと思えないような映画が多くなっているような気がする。でこれまで我々が映画だと思って見てきた、九〇分なら九〇分、僕が好きなのはもっと短いのですけど、このワンショットワンショットはどういう意図で取られているんだろうとか、ひとつの映画の中にただ表面的な物語じゃなくて作者が構成している全く別な物語がある、それを読み取ること見て取ることが映画を見る醍醐味だったと思っているわけで。最近(監督の)塩田明彦さんが「映画術」っていう講義録を出されていて、その中でも言われているんですけど映画って言うのは表面上に描かれているものだけではなくて、塩田さんは「スタイル的に」と言っていて、裏とか深層とかという言い方はしないわけですが、「スタイル的に」また別の物語が語られている。写っている。僕もそうだと思ってまあ映画を見てきているわけなんですが、どうも最近の映画っていうと、裏というか、もっと別な意図というか、そういうものを読み取らなくていい映画が増えてきたなあ、ということなんですよ。
七里:つまり、映画とは何がしかの意図を持って構成されたものが映画だってことですよね。僕、あるところで、映画と映像ってどう違うんですかって聞かれて、答えられなかったんです(笑)、「集合体で表すと、映像の方が広くてその中にあるのが映画で…」みたいにごまかしたんですけど(笑)。映画でも、構成、組み合わせ、モンタージュだけじゃなくて、そこに写っているものの強烈な力、魅力が目を捕らえて放さない、というと極端ですけど、例えばぼんやりとね、眺めていて心地いいとか、そういう映画もあると思うんですよ。もちろん、そこに構成の意図はなくただ写っているだけとは言いませんけど、例えば強烈な人とかその日常だとか、なかなか撮影隊を編成して現場を組んだり潜り込んだりするのは難しい場所、状況でずっと廻しておくとか、そうして撮られた素材を足がかりに作られていく映画というのはあるし、実際それはひょっとしたら、デジタルビデオで撮られるようになってから多くなってきたという気がしないでもない。
吉田:素材の面白さっていうのは映画の中にひとつあると思うので、それは被写体の問題じゃないですかね。
七里:じゃあそのすごく強烈だったりずっと目を奪われる被写体が写っているだけじゃ映画にはならない?
吉田:それだけでも面白くはあるとは思うんだけれど、そこは微妙だなというのが僕の立場。監視カメラの映像を見ていても面白いでしょ、あ、こんな人がいる、とか、あ、変なことしていると。監視カメラの映像だけ見ていてももしかしたら面白い。
七里:その映像と映画の違いっていうのは吉田さんとしては…。
吉田:構成しているか、していないか。
七里:構成していれば何で撮られようと…。
吉田:そう思いたい。デジタルカメラだろうと何だろうと、映画たり得るだろう、と思いたい。だからやっぱり被写体ってことでいうと、どうしてもフィルムだと被写体の痕跡が焼き付けられるということはあって、被写体の浴びていた光をフィルムが感光するわけだから、痕跡がそこに残っているのにたいして、デジタルはあらかじめデータとして保存されているという違いがあって、幽霊写真がそうなんだと。
七里:心霊写真?
吉田:心霊写真はフィルムだからおぉーとなるのであって、あれがデジタルのパソコンの画面で、ほら心霊写真ですよって言われても、ええ?という風になるんじゃないかと僕は思ってまして。
七里:心霊写真だって現像の仕方で作れると思いますよ。
吉田:それはそうですね、ただ、フィルムというものがそこにあって痕跡を残しているという信憑性があるので。でもそれもどうせ神話であって強弁なんですよ。でもそれはそう思いたい。
七里:吉田さんやっぱりロマンチストだ(笑)。すいません、ちゃかしちゃって。でも“痕跡”ってことだろうとは思うんですよ。映画と映像という話からは飛んでしまうかもしれないですけど、ある種の像に人が惹かれて、そこに想像してしまうっていうのはそれが何かの痕跡だからじゃないかとは僕も思います。
吉田:痕跡であってモノ自体ではないと思うんですよ。そこに欠如があるから、欠如を媒介として、とかいうと否定神学と言われてしまうわけなんだけど。
七里:デジタルだと痕跡ではない映像になってしまうわけじゃないですか。アニメーションはもちろん描かれた絵が動いていたわけだから、フィルムで撮られていた頃から現実には無いものを生み出していたんだけれど、さっきBGMでかけてた細野晴臣さんのアルバム「SFX」。名盤だと思っているんですけど、SFXとかあり得ないものの像を造り始めてから、それはもちろんあり得ないもの痕跡だったんですけど、あり得ないものを作って映してたわけなんですけど、それがデジタル処理されて一枚一枚データとして作られたときから、それは最初から信号なわけですよね。それを作っている人間の意志の中で痕跡はあるのかもしれないけれど。
吉田:その、作っている人間の頭の中の痕跡が重要なんじゃないでしょうか。
七里:でもそれってものすごくメタ状態だと思うんですよ。人間が像に対して戯れていくということとしてはね。
吉田:でも、できあがったものに、作っている人がそういうことを考えているかどうかというのは出るもんだと思うんですよ。
七里:まとめにかかってますねえ(笑)。昔話ですが、「フィルムには何かが写る」っていうのは、少なくとも僕が助監督だった頃までは現場ではもう教科書みたいな言葉だったんですよ。乱暴な言い方ですが、切羽詰まった状況でも「廻しておけば何かが映る」っていうのがフィルムのころの現場にはあって。「本番!」って号令がかかって、もう気合いだけでシュートしても、ラッシュを見ると凄い演技や殺気立った空気が写っていて、「ああ、現場ってかっこいい!」みたいなことになっていく。そうやって映画は撮られていくもんだと思ってたし、今も思うんですよね。それが九〇年代の半ばぐらいからVシネマがフィルムで撮らずにビデオストレートで作られ始めたころ、それは僕の助監督時代と重なるんですけど、「ビデオは何も映らないけれどフィルムで撮ると何かが映るんだよ」っていう風に言われるようになっていって。僕はそういう「何かを写す」というようなことが映画には大事だと思っているんですが、でもその一方で、本当かよ?みたいな。
吉田:本当です(笑)。
七里:これは、いろんなところで言っている話なんですけれど、そのころ、昔は神代組でもあったある大編集マンに、なんか飲み友達のように思われていて。そんなつきあいをしてたからか、ある監督のある作品のとき、編集中に監督がちょっと席を外した途端に、ぼそりと「切っても血の出ねえフィルムばっかり撮ってきやがって」と、僕に聞こえるように呟いたんです。で、「ああ、フィルムって、切ったら血が出るもんなんだ…」と肝に銘じたんですが(笑)。今だったら「はあ?」みたいなことですよね。この感覚って無くなったと思うんですよ、フィルムにハサミを入れることが、コピー&ペーストに変わって、アンドゥで簡単に戻れる。これはすごい感覚の変容だと思うんですね。実際フィルムのころは大変だったんです。フィルムにハサミ入れて、切ったカットをどの束にまとめておくか、整理する助手はカットクズを管理することで編集を覚えていったんです。そういう大変な作業だと分っているから、一度切った編集を元に戻すというのはよほどのことが無い限り、編集部はやりたがらない。だから、ハサミを入れることは、入れさせる方も含めて気合がいるわけです、どこで切るかということがね。それがデジタルでは何の苦労もなく切ったり戻したり、試したりやり直すことができる。すごく便利になったには違いないが、このコピペっていう機能ひとつ取っても、プロジェクターと映写機の違いくらいの映画制作のもの凄い変化だと思うんです。それでも映画は映画…。
吉田:になると思いたいんだけど…。
七里:そういう“気合い”みたいのが、なにかを映していたものの正体だったのかなあ。でも、そもそもほんとにその“なにか”って映っていたの?みたいな疑問もあります。
吉田:さっき言ってた監視カメラとか、この前言ってらした最近のカメラの進歩、8Kとか
8Kでは切り返しができちゃう…?
七里:おそらく8Kになると、一枚の画を長回しで撮っておけばその画からフレームを切り出すことで撮影した後でカット割りができてしまう。カット割りして撮る必要が無くなるかもしれない。ただ8Kではズームはできるがトラックアップができない、それはまだ不可能。でも不可能だって言われてることはそのうち可能になる。技術革新ってのは留まることがないから、例えば8Kの画素数だけじゃなく空間情報をいろいろ記録できるようになれば可能かもしれない。そのうち当たり前のように、一枚の画を撮っておけばそのシーンが全部作れるような時代が遅かれ早かれ来るのかも。そうなったときに、構成する意思っていうのはどうなっちゃうのか? 編集の段階で構成する意思?
吉田:まあそうなるでしょうね、出来上がったものをどうするかっていう。
七里:精神論にはしたくないけれど、撮るという行為が弱くなっていく。
吉田:低いところに流れていくものですから。そうじゃないといいなあ。
七里:そうじゃないといいですよねえ。
吉田:そういうこと考えているとすごく居心地が悪いなあ。
七里:まとめようがない話になってきましたが、無理やりまとめると、こういうことを考える機会を持つことで、今、映画を作ることへの何かのヒントになるんじゃないかということで話を進めてきましたが…「あるのかないのか」は問題であるのかないのか。問題じゃないかもしれない。
吉田:問題であっても問題でなくあって欲しい。
七里:という感じで次回も続けます。じゃあこんなところで、長々とありがとうございました。

会場:渋谷アップリンク・ルーム

※ 各回の要約があります。↓

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