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【映画評】 ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー『第三世代』 背景音についての雑感

『第三世代』(1979)もファスビンダーの他の作品にもれず、多くの論者により語りつくされた感がある。ここでは、過剰なまでに露出する「背景音」について述べてみたい。具体的には、「背景音としてのラジオのアナウンスを殆ど絶やさず使用し、時に聞きとるべきセリフさえその中に隠してしまう音処理」(細川周平)……(注)ラジオではなく、正確にはテレビである……ということに尽きるだろう。
だがこの背景音、それは「聞きとるべきセリフさえその中に隠してしまう」には止まらない時代の音でもある。このことを、本作内のビデオ映像との関連で素描してみる。

林立する近代的なビルの光景のショット。フレームに映し出された光景は、都市の騒音とはまるで無縁であるかのように、テレビかラジオのアナウンス音に覆われている。目の前の映像と音との乖離。ホテルの高層階の、街路のノイズから遮断された部屋から捉えられたショットかと思いきや、カメラが後退するとそこはオフィスの一室。ひとりの女がソファに座り、テレビのディスプレーを見つめている。
ディスプレー画像のビデオ特有のノイズから、女が見ているのは録画映像(注*)であるとわかる。案の定、社長らしき男が入室すると、女はビデオデッキからビデオソフトを取り出す。
物語の冒頭からなにゆえにビデオ映像なのかと訝しく思うのだが、一見、主題とも思えないビデオという媒体は、外部への声明装置として、映画のラストで反復される。起業家ルーツにビデオカメラを向けるルドルフ。ルドルフは、まるで映画監督であるかのように、ルーツに口うるさく指示を出す終盤のシーンだ。

始まりと終わりの二重のビデオ。物語の導入としてのビデオは、すでに撮られたものの再生として、終わりのビデオは、いま撮ろうとしている進行形として呈示される。なにゆえ始まりと終わりなのか、たかがビデオなのに。

物語の “始まり/終わり” という不可塑性はビデオの呈示により、“過去(再生による過去の映像)/未来(撮影による未来の映像)” へと反転しているようにも見えるのだが、その反転を繋ぐのが、冒頭ショットの背景音としてビデオ再生用のディスプレーから途絶えることない音声の持続と、映画終盤のビデオ撮影の犯行声明というアナウンス音である。それは、単なる持続としての音ではなく、突如、変位する音として現れる。冒頭から始まる絶え間ない背景音としての音声は、物語の終わりを告げる犯行声明の撮影に接続されることで、ようやく主題音となって生きてくるのだ。ファスビンダーにとっての背景音とはある種の軽さのことであり、しばしば主題音をも覆い尽くのだが、背景音から主題音への変位とは軽さから重さへの変位なのではなく、背景音は主題音となっても軽さは変わることはない。それは言うまでもなく、偽装としての “軽さ” である。

主題音と背景音の変換・変異、それは社会における布置として世界を変質させ、テロリズムを醸成する社会背景としての「音」なのである。

音声についての補足……否定の音声について。
はじめにペトラの否定「nein,nein !」があり、つづいてズザンネの否定「nicht,nicht !」があった。これぞ「意志と表象の世界」(ファスビンダ―)の否定辞なのだろうか。ファスビンダーは否定の一語を何気なく紛れ込ませる、しかも不意に。そして、その音声の強度。ペトラはなにかにふっ切れていた。

『第三世代』が示そうとしたこと、それは、音声は物語の中断や距離を置く作用があるとともに、介入や撹乱の「革新音」としてあるのではないのかということだ。本作は興味尽きない問題作に違いない。

可能ならば、繰り返し見たい作品である。

(注*)ロベール・ブレッソン『たぶん悪魔が』(77)の録画映像である。
『たぶん悪魔が』はファスビンダーが「もっとも心揺さぶられた映画」なのだが、彼はこの作品について次のように述べている。
自殺の美化または自殺の容認なのか、または僕が考えるようにその逆なのか、つまりブレッソンはこう言った、「死を受け入れることで、自分の生を生きるチャンスがより多く生まれた」と。
1977年ベルリン映画祭で、ファスビンダーが強力に推した作品なのだが、他の審査員の賛同が得られず、金熊賞を逃し、次点の銀熊賞を受賞した。自殺した「あの若い主人公にとって、社会参加は自分を人生につなぎとめておく活動への逃避でしかないんだ。自分がいなくても、自分が社会参加しなくても、すべてがそのまま回っていくっていうあの恐ろしい認識からの逃避なんだよ」(『ファスビンダー、ファスビンダーを語る』第2巻)
資本家ルーツが「死に向かうことは生を支えてくれること」と語る背後で、テレビディスプレーに『たぶん悪魔が』のビデオ映像が流れている。『たぶん悪魔が』は自殺する青年の物語である。

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

ファスビンダー『13回の新月のある年に』『第三世代』予告編


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