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【映画評】 石橋夕帆監督の新作『朝がくるとむなしくなる』を見る前に、『左様なら』を回想したい。

大阪アジアン映画祭2023で石橋夕帆監督の新作『朝がくるとむなしくなる』(2022)が上映される。働くこと、学校へ行くこと、生活をすること。何かが起きるわけでもない日々。そんな退屈な日々でも何かが動き出し、次第に心が消耗してゆく。数日後、わたしも見に行くのだが、その前に石橋夕帆監督の前作であり長編第一作の『左様なら』(2019)を回想したい。

『左様なら』は海辺の町を舞台とした青春群像劇なのだが、原作はTwitterやInstagramで若い世代から支持を得ているイラストレーター・ごめんの同名の作品。

〈左様なら〉
接続詞で「そうなら」「それでは」、別れの挨拶として「さよなら」を意味する。

本作の場合、両方の意味があるのだが、後者としては、中学校の担任の死、そして同級生・綾(祷キララ)の死という、死者に向ける「さよなら」だ。さらに、綾の死をきっかけに由紀(芋生悠)がクラスからハブられ、由紀がクラスメイトたちに向ける「そうなら」という行動を誘引する近未来。その結果としてのクラスメイトとの「さようなら」という決断である。また「左様なら」は自己肯定の「さよう」にもつながり、タイトルの秀逸さが際立っている。

映画冒頭、浜辺によせるスローモーションで捉えられた波。それは、空をいれない波のみの淡い色調の映像。そして浜辺に佇む女子高校生……綾だろうか、そこには死の予感がある……の後ろ姿の映像。寄せては返す波は出現と喪失であり、冒頭の浜辺に佇む女子高生を背後の存在として捉えられた意味が緩やかにフレーム上に浮かび上がる86分。

いや、浮かび上がるのではなく、フレームから滲み出す86分といったほうがいいかもしれない。その滲みとは、怪しげで不安定な潜みでありながらも裸形の多感な思春期の女生徒の言葉、視線、性の生々しさのことであり、「左様なら」の意味の二重性(そうなら・さよなら)のことでもある。その滲みのなんと緩やかなこと。そのことは、いつ変容するかもしれない色調や音声の危うさ、そして揺れるカメラの眼差しからもうかがうことができる 。

石橋夕帆監督が「教室には見えないルールがあって、誰かがハブかれていても傷ついていても黙認されるような空気があったように思います。しかしそれは決して特別なことではなく、あの頃の私たちにとってあの時間は一番輝かしく、代え難い大切な時間だったのだと思います」と述べていることに、ああそうなのかと、忘却でしかなかった思春期という時間が舞い降りてきた。教室が世界のすべてであるかのような思春期。そこでは、「ハブられる」ことは世界からの自己の存在の消滅であったかもしれない。だが、「左様なら」は、消滅を肯定(=さよう)することで自己の存在を肯定する場を発見することでもある。わたしはクラスからハブられた経験はないけれど、教室という世界が嫌でたまらなかった。

『朝がくるとむなしくなる』はどのような作品に仕上がっているのか。主演は濱口竜介『寝ても覚めても』(2018)竹馬靖具『の方へ、流れる』(2022)唐田えりか

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

石橋夕帆監督『左様なら』予告編


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