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【映画評】 石原海(UMMMI.)『ガーデンアパート』

2022年秋、石原海監督『重力の光:祈りの記録篇』が上映される。
わたしが期待する映画監督の新作である。

石原海(1993〜)は映像作家UMMMI.として、英国BBCやイメージフォーラム フェスティバル、ポンピドゥーセンターで作品を発表するなど、写真集(写真+テキスト)、アート、映像の多層領域を軽やかに横断するアーティストとして、近年活躍がめざましい。

わたしが石原海を知ったのは、長編映画デビュー作『ガーデンアパート』だった。横溢する言語・映像イメージに圧倒されるとてつもない映像作家の出現に、わたしは狼狽したほどだった。監督は、『ガーデンアパート』のメッセージに、次のような文を紡いでいる。
「青臭くて恥ずかしい映画です。どうやって人生を進めたらよいのかわからない男女。そしてそのまま年を重ねた中年女性を中心に描いたこの映画は、ゴミみたいな気持ちで生きてゆくこと、途方に暮れてつい酒を飲み過ぎてしまうこと、崩壊する愛にすがってしまうこと、そういった出来事についてのメロドラマ作品となっています。」そして、「アタシの映画を捧げるひとに小さな革命を起こしたい。」と述べる革命児でもある。
ここには事態の層、それとも、堆積という重力ある思考があり、石原海の底知れぬ(まさしく海のような)イメージを想い浮かべないではいられない。
当時の記憶を手繰り寄せながら、『ガーデンアパート』の不完全な短評を記してみた。

石原海『ガーデンアパートThe Garden Apartment』(2018)

「幸福が楽しいとは限らない」という台詞。これはファスビンダー『不安は魂を食いつくす』からの引用なのだが、元を質すと、マックス・オフリュス『快楽』の台詞ということのようだ。ゴダール『女と男のいる舗道』にも引用されているように思う。

いきなり台詞の引用について述べたのだが、本作を見た日、わたしは次のようなメモを記している。
「台詞と身体の過剰なほどに説明的なところが気にならないわけではないのだが、夜から朝へと向かう時間の濃密さを描ける期待の監督であることは確かだ。」
説明的という否定と濃密さという肯定。これは必ずしも批判としてのメモではない。そうではなく、豊かさの現れという意味で、このゴシック的非平衡が映画を見るわたしを怪しげな作品世界へと誘うという異能感を覚えたのである。

冒頭、ひかりが脚部や脇のムダ毛を剃るシーン。石鹸の白い泡と皮膚という身体の表層は、女、もしくはジェンダー・スタディーズとして呈示なのだろうかととりあえずは思うのだが、そう単純に最適解が見つかる映像作家ではない。そのあとのシャンプーの白い泡と頭皮。どこまでも内部としてではなく表層としての呈示。京子の登場に際しても巧みで、真っ赤な下着に包まれた、というよりも、赤い下着を呈示することで皮膚という表層を露わにする。そして秀逸なのが、赤く熟したプチトマトを一列にテーブルに並べ、京子は舌を使って口に含み、プチッと噛み切るシーン。パンストを履く際にも、パンストと皮膚との接触面が気になるのか、パンストの捩じれを掌で修正しようとするが諦める危うい皮膚感覚。石鹸の泡の白と下着とトマトの赤の対比、そして皮膚という表層。これがひかりの妊娠を媒介に、表面の知覚から内省へと位相を変位させる。

本作は「愛」についての言及でもあるのだが、わたしはその「愛」がなにものであるのかを失念、絶望している。愛の崩壊、もしくは不在についてもいまとなてはよく分からない。愛に限らず、世界は過剰なほどに崩壊と欺瞞と不在に満ちているから、そのことについては留保することにした。ただ、見知らぬガーデンにこっそり侵入し、たとえそこから脱出することができなくなってもいいから、名づけることもできない何かを探し求め、彷徨い続けてみたい欲望は抱いている。それが世界への忠誠でもある植物に満ちたガーデンアパートなのであり、きっと現れないであろう愛の所在であると思う。

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)

石原海『ガーデンアパート』予告編


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