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【映画評】 ジャン=リュック・ゴダール『さらば、愛の言葉よ』についての断片的資料

以下の文は、ジャン=リュック・ゴダール『さらば、愛の言葉よ』(原題)Adieu, au langage(さらば、言葉よ)を映画館で2度鑑賞し、その記憶をもとに書いたものです。いわば散乱した断片の集積であり、論考ではありません。

本作は【第1幕】と【第2幕】からなり、【第2幕】は【第1幕】の反復としてある。
言うまでもないが、反復は多くの差異の集積である。
それぞれの幕は2つの章[自然]と[メタファー]から成る。
また、処理できないほどの夥しい言葉とキャプション、そして音響、イマージュで構成されている。フランス語を母語としない人間にとり、言葉(セリフ)の字幕、そしてキャプションの字幕の洪水で、ほぼ理解不可能のように思える。記憶を頼りに、映画の断片の記述と解説を試みた。

【第1幕:悲劇】

ヘーゲル「世界史上の大事件と大人物は2度現れる」。ヘーゲルはそれがどのようにしてかは書かなかった。
マルクス「歴史は2度くり返す。すなわち、1度目は悲劇として。2度目は喜劇として」。
Adieu
反復
Ce n'est pas une image juste, c'est juste une image. 「正しいイメージはない、ただひとつのイメージがあるだけだ」
(注1)『さらば、愛の言葉よ』のイマージュの背景に、マルセル・プルースト『ジャン・サントゥイユ』の次の一文があるとの見解がある。
「太陽はとうから差しているが、川はまだ朝霧の中で眠っているとき、川に川自体が見えないようにわれわれにも川は見えない。ここはすでに川だ。しかし視界はそこでさえぎられている。見えないものはただ虚無と、もっと遠くを見るのをはばんでいる霧ばかりだ。カンバスのこの箇所では、なにも見えないのだから眼に見えるものを描いているのでもない。また見えるものだけを描くべきであるのだから見えないものを描いているのでもない。見えないということを描いていて、霧の上を漂うことのない眼の衰弱がカンバスにも川の上にも加えられている。それがまったくすばらしい。」(マルセル・プルースト『ジャン・サントゥイユ』「レヴェイヨン公爵のモネ」保苅瑞穂訳筑摩書房刊・プルースト全集13)

1、自然

イメージの反復
国家、失業、民主主義、ソルジェニーツィン・収容所列島の書物
1933年ヒトラー、ドイツ国首相になる。1934年のニュルンベルグでのナチス党大会は、レニ・リーフェンシュタールにより『意志の勝利 Triumph des Willens』として映画化された。
1945年、米国による広島・長崎への原爆投下。その前年、ジャック・エリュールはボルドー市の助役の職に就いたが政治に深く失望し、早々にして職を辞した。その後、『技術社会』(1945年刊、原題:技術、あるいは、世紀の賭け La technique ou l‘enjeu du siècle)で、先鋭的な現代テクノロジー批判と社会批判を展開した。イヴァン・イリイチや反グローバリスムに影響を与えた。
ゴダール『映画史』の引用
Ça m’est égal.(サ・メ・テギャル、そんなことどうでもいい)2回反復→『さらば、愛の言葉よ』は〈2〉、〈2+2〉、もしくは〈2〉の倍数の物語である。男の子と女の子。柵に手をかける女、そこに男の手。2人の女。対〈男、女〉は2人の女を必要としている。

2、メタファー

泳ぐ人(モノクロ)、戦争。

OH LANGAGE(オー・ランガージュ、おお、言葉よ)は au Langage(オ・ランガージュ、言葉に)と同音。

ニコラ・ド・スタール画集→『さらば、愛の言葉よ』は、ニコラ・ド・スタールの色彩表現に深く傾倒している。
(注2)フランス語の être(エートル、存在→英語のbe動詞)→AとB が êtreで結ばれることで存在が他の存在を生む。たとえば A est B(AはBである)。これはAとBの同一性であると同時にBのAへの帰属でもある。

(同一性と帰属)
ゴダールのイマージュの問題としての「A est B(アー・エ・ベー、AはBである)」と「A et B(アー・エ・ベー、AとB)」
〈接続詞「と」(フランス語 et→英語 and)の機能に、ドゥルーズはことあるごとに注意を促している。AはB「である」(être、be)という動詞は、AとBの同一性やAのBへの所属・帰属を表す。しかし「AとB」は、AにもBにも属さない何かを出現させる。あるいはAとBとの中間を示す。そこにはAにもBの外部にも、または間隙にある何かがあらわれる〉(宇野邦一『ドゥルーズ流動の哲学』(講談社選書メチエ)p.40))

「A est B」と「A et B」についてもう少し先に進む。
この表現には〈同一性〉と〈帰属性〉のみならず、音の同質性〈est(発音記号 ε)〉と〈et(発音記号 e)〉(日本語カタカナ表記では同じエとなるが、音の同質性であって同音ではない)にも注意しなければならない。

これは英語圏の哲学者ヒュームのAとBの関係性(and)が元になっている。ドゥルーズはヒュームが位置づけている以上に補強し、ジル・ドゥルーズ/クレール・パルネは「事物が生きはじめるのは、いつも中間においてである」(ジル・ドゥルーズ/クレール・パルネ『ドゥルーズの思想』(田村毅訳、大修館書店刊)p87)と述べている。つまり、〈A est B〉ではなく〈A et B〉による中間項の出現においてである。これは、ジェンダーや格差を考える場合にも有効である。ゴダールは『さらば、愛の言葉よ』において、言葉やイマージュによる中間項の出現の問題を提起していると理解できる。

イデアとメタファー métaphore の違い
→ 路面電車(ラテン語 metaphora 運送、隠喩)に乗る
→ 運送。メタファーは移動の意味でもある。

イメージが現在を殺している。→ ゴダールのイメージに関しては上記(注1)を参照

Ça m’est égal.(そんなことどうでもいい)2回反復→この反復は協調なのか、それともなんらかの差異を生じさせようとしているのか。

サイコロ遊びに興じる男の子と女の子の2人。以後、2に関する描写頻出する。→ 本作は 〈2〉についての物語、記述、イメージ。

柵に手をかける女、そこにひとりの男の手。→ ここにも〈2〉が出現する。

【第2幕:喜劇】喜劇は雄弁である。第1幕と同じようで、それでもどこか違う。メタファーから人への変換がる。
→「喜劇」については「悲劇」同様、ヘーゲルとマルクの言葉を参照。

1、自然

少女とひとりの女。
空の定まらないショット。
わたし(この文の筆者ではなく、登場人物)がここにいるのは「non」と言うためである。
死ぬために「non」と言う。
Tu sais pas.(チュ・セ・パ、お前は知らない)
わたしは死にます、adieu.(アデュー、さよなら)→à dieu. (ア・デュー、神に)。
なにも語らず。
観光客、車の音(ブレーキ、衝突する音)。
AH DIEU(ア・デュー、ああ、神よ)→ Adieu(さようなら)と同音。そして、à dieu.(神に)。
視線を交わすことはできない。交わった2人は、2人でいることはできない。またもや〈2〉。
ショットのつなぎなのか、連続した映像なのか。
意識で自覚持った人間、世界を見ない。
男と女の影(それは神の影か)、タバコに火をつける。
彼は?→ Dieu(神)ではないのか。

2、メタファー

船、空。
柵に手をかける女、そこにひとりの男の手。
男:君に従う。→ 所属、同一性 → 上記(注2)参照
女:君に従うとはどういうこと?
男:もう意味はない。
女:もう夏よ→ 時間の経過を表す。

ゴダールのイメージにはもっと重大な問題がある。それは視線がないということだ。
森を撮るのは簡単だが、森のすぐ近くの部屋を撮るのは難しい。
アパッチ遊び。森とは世界のことである。
待たせないでよ、早く早く Dépechez-vous,allez allez!
うんちは平等である。
OH LANGAGE(オー・ランガージュ)
AH DIEU(ア・デュー)
Les Mots(レ・モ、言葉たち)→ Les Morts(レ・モール、死者たち) を連想させる。相互メタファー。「言葉」は「死」んだということ。
もう言葉など聞きたくない。
クロード・モネ → 見えるものを描くのではない、見えないものを描くのではない、視線は遮られ、見えないことを描くのだ。→ここでもマルセル・プルースト『ジャン・サントゥイユ』の「見えないといことを描く」に呼応している。
わたしは、登場人物(personage)は嫌いだ。
周囲が人物をつくる。
無理矢理人生を出す。
人生をつくり語らせいる。選べない。
鏡に映った2人。わたしたちは4人。2+2、2と2の倍数。→ ジャック・リヴェット『アウト・ワン 我に触れるな』を想起する。
人生は、行ったことではない、行わなかったことの表現だ。→ 本作に直接の関連ないが、寺山修司(起きなかったことも歴史なのだ)を思い出す。
川に流される犬と陸の犬。
カメラとクレーンの影 → 上昇運動
(挿話)1816年、レマン湖畔のバイロン卿と恋人シェリー → ディオダティ荘の怪奇談義。シェリーは小説を執筆(『フランケンシュタイン』)
Je ne savais pas.(ジュ・ヌ・サヴェ・パ、知らなかった)ゴダールの声?
来世 l’autre monde.(ロートル・モンド)
反復される言葉とイマージュ → 言葉もイマージュも何も描けない。 → やはり描けないことを描くのか。だが、「描けないことを描く」ことは描けるのか。
映画ラスト:赤ん坊の泣き声と犬の啼き声。音声は確かだ!

(日曜映画批評:衣川正和 🌱kinugawa)


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