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精神疾患に壁を作らない

こないだXのメンタル界隈で、希死念慮のことがちょっと話題になっていた。希死念慮のある患者さんに対して、治療者はダイレクトに「自殺したいと考えることがありますか」と聞くべきか否かという話だ。あ、ちなみにだけど、私のX離れは順調に進んでいて、数週間前まで息をするようにXのアイコンをタップしては、どろどろに時間を溶かしていたが、最近では2日に1回ふと思い出して数分眺めるぐらいだ。今思案中のあれこれが軌道に乗るまでは、細々と続けていこうかな。その温度感で眺めると、Xの治安ってこんなに悪かったっけ、などとにわかに思う。シンプルこわい。まあ、その話は置いといて。

ダイレクトに聞くかどうかについては、多くの精神科医や心理士が「ダイレクトがよい」の方向で反応していた。自殺を考えてしまうこと自体はしょうがない、特別なことじゃない、自身が普通じゃないなんてこともない、そういうことはあるのだ。それを伝えることが、患者の安心と信頼を確保する手段にもなる。そこで治療者が怯んではいけない。ダイレクトな言葉を避けてオブラートに包もうものなら、一気に”腫れ物”になる。患者は罪悪感を覚えるかもしれない。そんなことを考えてしまう自分を責めるかもしれない。口にすると周囲を困らせるのだと分かれば、二度とその気持ちを表すことはできなくなるかもしれない。それは、絶対にいけない。だから、さらりとダイレクトに言うのが望ましいのだと。

たしかに。分かる。専門家がオブラートに包んできたものを、むりやり破って開ける度胸なんて私にはない。向こうが包んできた時点で過剰適応して、なんならもう一枚オブラートかぶせに行く自信すらある。あと、腫れ物扱いはその人の孤独感を強める以外の作用を持たない。シンプルにやだ。というかこれ、希死念慮を「精神疾患」に置き換えても成立しそうな文脈だなと思ったりもした。精神疾患自体もまた、日常会話でアンタッチャブルにされがちな話題だ。よかれと思ってそうするのか分からないが、オブラートに包まれれば包まれるほど当事者のセルフスティグマも増すだろう。大局的に眺めたとき、ダイレクトに言わないメリットが果たしてどれほどあるだろうか。

ただ、精神疾患に限らず病気全般がパーソナルでセンシティブなことだから、天気の話のノリで話題にすることではない。が、何かの拍子でそういう話になるようなとき、私はあえて隠したりオブラートに包むことはしない。個人的な経験ベースで言えば、さらりと話せばさらりと受け入れてくれることが多い。それどころか「実は私の知り合いも...」という話をシェアしてくれることが少なくなかったりする。だから私自身は、ダイレクトに言うことに抵抗はほとんどない。でもまあそれは、「パニック症だから」というのもあるかもしれない。芸能人のカミングアウトの影響で耳馴染みもそれなりにあって、一般的なスティグマも精神疾患の中ではわりと薄いような気がする。著名人のカミングアウトの影響はデカい、とつくづく思う。

ちなみにパニック症の経験をカミングアウトしている有名人は、パッと思いつくだけで4、5人浮かぶ。その中でとくに私が勇気をもらったのは、いとうせいこうさんの話だった。ご本人のブログだ。かなり昔のものだけど、よろしければ。リンク貼っておきます。

話を戻す。精神疾患の話題をアンタッチャブルにされる件。腫れ物扱いする人がそうしてしまう一番の理由は、やはり精神疾患に対する解像度が高くないからだろうと思う。何の影響だかは分からないけど、精神疾患になると「気が狂う」と思っている人はそれなりにいそうだし、それより何より「一度精神疾患になると、もう二度と”マトモ”には戻れないのだ」というスティグマは思いのほか大きいのじゃないか。一度なったらもう戻れない。そう思えばこそ気の毒な気持ちになって、話題にしないのがむしろ礼儀のように感じるのじゃないか。

かく言う私も恥ずかしながら、例えば統合失調症やトラウマについて、以前その手のスティグマを持っていた。統合失調症は、かつて「精神分裂病」と呼ばれていた疾患だ。名前がもうひどい。それはそれとして、実際1950年代に有効な薬が導入されるまで難治性と言われていたそうだ。現在は回復可能な疾患となっている。ともあれ私個人の体感的にも、精神疾患の種類によってスティグマにそれなりの差異はあるだろうなとは思う。だから結局、その疾患についてどれぐらい解像度が高いかによるってことなのだろう。

知らない人に知ってもらうことは、これからの大きな課題なんだと思う。風邪引いちゃってさーレベルで吐露しても周囲に腫れ物扱いされないとなれば、当事者のセルフスティグマもきっとかなり薄まるはずだ。隠さなくてもいい、隠すようなことはしていない。そう思えるようになれたら、それだけでもずいぶん気持ちが軽くなると思う。ふと、岡檀さんの著書「生き心地の良い町」を思い出した。

全国で最も自殺率の低い町が徳島県にある。この本は、そのありふれた田舎町の自殺率がなぜ低いのかを追ったフィールドワークの記録だ。興味深いことにその町は、自殺率の低さに反して精神科にかかる割合がぐんと高いらしい。それこそ風邪でも引いたかのように、ナチュラルに精神科にかかるのだそう。まさに風邪引いちゃったかもーレベルの温度で、なんか最近落ち込んでるからちょっと精神科行ってくるわー的な会話も少なくないとか。精神疾患に対するスティグマがあまりないのかもしれないし、あるいは「人生は山あり谷あり、転がりながら生きていくものさ」という哲学が染み付いているのかもしれない。ともあれ、そういう町なのだそうだ。さらに面白いのは、田舎特有の”結束”とは無縁の土地柄でもあって、つまり家族のように近しい関係性だから何でもあけすけに話すというのじゃないわけだ。むしろ、町人の間にはある程度の距離感が保たれているとのことだった。

ということは、別に相手を深く知らなくても、疾患について解像度がそれほど高くなくてもいいのだ。それでも精神疾患を腫れ物扱いすることもされることもない関係は作れるのだ。そうか、たしかに「相手を傷つけないために、まずちゃんと知らなきゃいけない」というのはどうも堅苦しい。もし「ぜんぶ知らなくても認められる」なら、その方がなんぼでも汎用性が高い。とりわけトラウマの引き金になった出来事なんかは、思い出したくもないことばかりだろうし。知らないからオブラートで壁を作るのはしょうがない、とはそれほどうまい言い訳になりそうにない。

書いてるうちに、また思考が二転三転した。結局あまりまとまらないが、とにかくどうすれば壁を作らずにすむか、作らせずにすむかを私はもっと考えるべきなのだろうと思う。ちょうど今、どうにか地域包括支援の活動ができないかを模索しているのもあって、個人的にタイムリーな話題だった。そういやこないだオンデマンドで、精神科医の安克昌さんをモデルにしたドラマ「心の傷を癒すということ」を観た。劇中で安さんが言っていた。「分かった、心のケアとは誰もひとりぼっちにしないことだ」と。五月雨式にいろいろ思い出した。こういう学びだけをXから吸い取れればいいのだけど。なかなかですな。んで今、ドラマの後追いで安さんの著書を読んでいる。(おわり)

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