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恥の多い一年を送ってきました。

どうも、まるです。noteを更新するのは久しぶりなことになってしまいました。

2021年が終わります。
皆さんにとって、今年はどのような年になりましたか?
多くの人が、良い年を送れたことを祈るばかりです。

さて、僕にとっての2021年はどうであったか、ということですが、
26年間生きてきて、
今年ほどつらく、孤独で、しんどくて、恥の多い一年はなかったです。

僕にとって、今年という年は最悪で災厄でした。


実は、僕は文章を書くのが好きです。
誰かに教えを請うたわけでも、めちゃくちゃ勉強したわけでも、たくさん本を読んだわけでもないです。
しかし、文を書き、それを読んでもらうことが嬉しいし、たまに「読みやすい」と褒められることが活力となり、書くことが趣味になりました。

その僕が、実に4年ぶりに、今年という年について、本気で文章を書いてみたいと思いました。
書かなければ、今年に終止符を打てない、と思ったからです。
書いて吐き出すことで、今年を終えられる、と思ったからです。

なので初めにお断りしますが、この文章は読みやすいものではないし、詩的でもないです。


この文章には、個人名を出さずとも、本人が読めば自分のことであると分かる内容が含まれています。
それにより嫌な思いをさせてしまうかもしれません。
しかし、それが僕の本心であり、その多くはすでに本人にお伝えしていることですので、包み隠さず書きます。
これを読み、僕に反感を持ち、ブロックしていただいても構いません。
それでは、始めます。


1月〜3月

僕にとって最も忙しく、最も充実していたのはこの時期です。
この頃、僕はフジテレビで働いていました。
ウィークリーのレギュラー番組で働いていましたが、フジテレビで働き始めて以来、この1月〜3月という時期は、とある特番に参加しており、今年も例外ではありませんでした。

10年前の3月11日。
僕たちは未曾有の災害に遭いました。東日本大震災です。
僕は、この震災に関わる特番に毎年参加しており、今年は特に重要な役割を果たすことになりました。

3年間、僕の面倒を見つつ、信頼してくださった上司と、
去年から僕の下で一緒に働いてくれた後輩と共に、
あの震災について向き合う日々が続きました。

僕には自負がありました。
おそらくフジテレビのスタッフの中でも、20代の中では最も震災を知る人間だという自負が。
それゆえに、10年という節目を迎える今年の特番に向けて、とにかく一生懸命働きました。
本当にまるまる2週間、家に帰れなかったこともありました。

結果的に、番組自体は成功しました。
視聴率こそ低いものの、社内での評価も高かったです。
しかし、僕には忘れてはいけない最大の失敗があります。

スタッフが1人、番組の完成を見る前に、リタイアしてしまったのです。
僕は、そのスタッフが突然いなくなってしまった、あの日のことを忘れることは出来ません。
そして、そのスタッフの最も近い上司は僕でした。僕は無力でした。
異変に気付かず、しかし分かったふりをしていました。
この文を書いている今でさえ、その時のことを思うと、身につまされます。

今思えば、この時から悪い空気は流れていたのでしょう。

特番が終わり、その約2週間後、僕は3年間働いたフジテレビから離れることになりました。
それは、上記のことが原因ではなく、かねてからの僕の夢を叶えるための1歩を踏み出すためでした。
僕にとって、辞める決断は英断であったし、ここからがスタートだと、本気で思っていました。
そして、本当に多くの経験と出会いがあったフジテレビに、最後は感謝することが出来ました。

ここから、悪夢が始まったのです。


4月〜7月

4月から、僕はテレビ東京の番組に携わることになりました。

いや、この時点ですでに何かがおかしいのです。
というのも、僕は別のテレビ番組をやりたかったのでなく、例えばドローンの撮影だったり、結婚式の撮影だったりと、テレビ以外の映像を手掛けるため、フジテレビから離れたのです。
しかし、どういう流れか、テレビ東京に行くことになりました。

その現場での仕事量は、フジテレビのころと比べると、多く見積もっても半分ほど、明らかに楽でした。

4月。
初めの頃は、新しいスタッフが来たという珍しさもあってか、和気藹々としたムードが漂っていました。
しかし、どこか居づらさは感じていました。

5月。
居づらさの正体は、「スタッフ全員人見知り」ということでした。
人見知りである方は結構多いし、僕も興味が無い人にはあたかも人見知りであるかのように接することがあるので、人見知りそのものは理解できます。
しかし職場で人見知りしかいないと何が起こるか、とまでは予見できませんでした。
何が起こるか。そう、「誰も僕と話さない」でした。
この頃から、僕に対する「無視」が始まりました。

6月。
職場で一番歳が低い人を除き、基本的に僕は誰とも喋ることができませんでした。
何故なら、僕と目を見て話してくれる人がいないからです。
この頃から、酒の量がものすごく増えました。
職場でほとんど話せず、その鬱憤をよく行くお店のスタッフにぶちまけ、酒を飲み、の繰り返しです。

さらに、徐々に職場でご飯が食べられなくなっていきました。
おにぎりなら食べられるかも、と思い、食べた数分後に吐き気を催しトイレに駆け込みましたが、誰も心配するどころか、気にも留めていないようでした。
職場ではご飯を食べられないが、腹は減ります。
そのため、夜遅い時間帯に暴飲暴食をしてしまい、体重がものすごく増えました。

実はこの頃、家でも問題が発生していたので、家でも誰とも話すことが出来ておらず、悪い空気は僕の中で溜まっていく一方でした。

友達や親友、彼女に相談する度、「早く離れた方がいい」という言葉を投げかけてくれました。
しかし、新しい職場に就いてすぐに辞めることが難しく、なかなか行動に移せませんでした。
温かい言葉をもらうためだけに相談していた感もあります。

傍から見ても、健康状態が悪く、目は死んでいました。

ひょんなことから、とある劇団と映画を撮ることになり、3日ほど映画撮影をしたのですが、この時は本当に楽しかったです。
ちなみに、この劇団さんとは今も関わりがあり、来年から何か一緒に仕事出来ないかと思っています。

7月
何か行動を起こさねばと思い、心療内科に行ったところ、一発で適応障害と診断されました。
ついにここまで来てしまったか、と思いました。
うつ病と診断されなくてホッとしたくらいでした。
お医者様から、「早く離れた方がいい」という、友達などから数十回は聞いたセリフを言われ、「でも無理だと思います」と言い残して帰りました。

適応障害について軽く触れます。
「ある特定の対象(人・場所・経験など)において、その人にとっての主観的な苦悩を生み、気分や行動面に症状が現れるもの」です。
僕の場合、対象は人と場所だったので、職場に一歩足を踏み入れたが最後、表情が消え、注意力散漫になり、食欲減退の症状が現れました。
逆に一歩出てしまえば、普段と大差なかったはずです(と言っても、この頃はどこへ行ってもボロボロでした)。

診断書をもらったもののどうしたらいいのか。
ダメ元で上司に相談した結果、その2週間後くらいに職を離れることが出来ました。
突然でした。
診断書がある以上、会社は対応を迫られます。であれば、会社に害が及ばない段階で、使えなくなった社員を切った方がいいのです。
診断書一つでこうも恐れられるのか、と、少し悲しくなりました。

しかし、突然にして悪夢は終わったのです。
正直、この4ヶ月に起きたことのほとんどを覚えていません。

ただ漠然と、闇でした。

8月〜12月

8月。
何はともあれ、悪夢は終わりました。
もう落ちるところまで落ちたな、と思いました。
生まれて初めて無職になってしまいましたが、まあ少しは遊んでいいんじゃないかと思いました。

そして新型コロナに感染しました。
本当に阿呆です。
この頃日本では感染者数がピークを迎え、国中が大変なことになっていたのにも関わらず、どこか自分とは関係ないと思ってしまっていました。

僕の場合、自宅療養だったので親にうつさないことが最も重要な責務でした。

親が本当に懸命に消毒をしてくれたことと、僕が徹底的に自分の部屋から出なかったことが功を奏し、僕以外の誰もかからず、2週間ほどで完治しました。
しかし、「本当に死ぬ」と思いました。

後遺症もあり、8月は棒に振りました。

9月。
4月から7月にかけて、飲んだくれていた頃に、新たな出会いもありました。
そしてこの9月は、そこで出会った人々と過ごすことが増えました。

この頃からの記憶は鮮明に残っています。
とにかくこの月は、人に振り回されました。

「写真を撮ってくれ」と連絡が来たから丁寧に対応していたら途中から連絡が取れなくなったこともありました。
ポートレートモデルをしてくれた人から、詐欺かと思うようなモデル料を取られたこともありました。
恋愛ごとにも巻き込まれたし、人間関係の相談にも乗ったし、職場の愚痴も聞きました。
自称メンヘラの、ただの承認欲求の塊とも出会いました(まあこれは大概みんなそうです)。
自分の狡さを知っておきながら見てみぬふりをするメンヘラとも会いました
目標だけ立てて何もしてない人とも出会いました。
浮気しまくってる人とも出会いました。

こう書いてしまうと全てがマイナスなことに見えると思います。
もしかしたら実際マイナスかもしれません。

でも僕は楽しかったんです。
7月までとの生活の違いに、幸せすら感じていました。
それだけ、7月までの僕の精神状態がギリギリだったということだと思います。

10月。
この月から、本格的にフリーランスとして活動するようになりました。
闇雲に色々とやってみた結果、収入もありました。
悪くない流れだと思ったし、この調子でやっていけばいいと思いましたが、昔からの僕の良くないところが出てしまいました。
「三日坊主」と「計画性のなさ」です。

特に僕は計画を立てるのがめちゃくちゃ苦手です。
あらかじめ決まったゴールがあれば良いのですが、何もないところからゴールを見つけ、そこに進むための手立てを考えることが死ぬほど苦手です。

だから僕みたいな人間は、本当は会社勤めをしている方が良いのでしょう。

だとしても、僕はもう「組織」そのものを嫌悪するようになっていたので、突っ走ってしまいました。

11月。
なんだかムカつくことが多い月でした。
何故か分からないのですが、カメラマンやクリエイターにはお金を払わなくていいと思っている人間が多いと思うのですが、特にそれを感じた月でした。
「友達価格」とは良く言ったものです。

その手の話においてイラつくことが多かった月でした。

12月。
ショックなことが立て続けに起きました。
細かいところまで上げればキリがないのですが、一番ショックだったのは、
仲が良いと思っていた人が、変わってしまった、いや、元からそういう人間だったと知ってしまったことでした。

最後にきて、僕の心はやられてしまいました。

逆に、今まで良く保っていたなぁと、自分で自分のことを感心します。

みなさんは、心の中で何か、ずっと大切にしているものって無いでしょうか。
僕にはあります。

今目の前にある大切なことだってもちろん大切です。
しかし、かつて大切だったものだって、同じように大切なことでは無いですか。

そう簡単に、忘れゆくものなのですか。

今の自分があるのは、そういう大切な経験を積み重ねて来たからではないですか。

人を信じてはいけないのでしょうか。

今のところ僕と同じ意見の人はいないようです。
愚痴れど愚痴れど、みんな同じ反応です。それはきっと、僕のことを思ってのことなのだと思います。分かっていますしありがたいです。
でも、僕にとって大切なことは、少なくとも僕は、そう簡単に忘れることは出来ないのです。

いや、本当に辛いのは僕なんかではないのです。当事者です。
僕なんてただの第三者です。そんなこと百も承知です。
それでも、脇役だってやはり、思うところはあるのです。

「人って結局みんなそうか」と思いました。
薄情なんですよ、人って。誰だって自分が可愛いんです。他人とかどうでもいい。
そんなことわかっていたはずなんですけどね。僕はやっぱり人が好きなようです。

何はともあれ、僕にとって大切だと思っていた人間は、僕の人生から消えました。


ここまで読んでいただきありがとうございます。
ここまでに要した約5000字はまるで恨み節ですね。
僕は誰かのせいにしないと気が済まないようです。

ですが本心であることに違いはないです。


人は変わっていきます。
それが人生ってもんです。
変わっていくからこそ楽しいし、面白いし、苦しい。
だけど、変わらないでもいいことだってある、と思って来ました。

しかし、どうでしょうか。

僕だって変わったではありませんか。

3月の自分。
7月の自分。
12月の自分。
もはや別人ではないですか。

周りの環境のせいもあるかもしれませんが、変わったことは事実です。
もし、3月の僕を好きだった人がいたら、その人は、恨み節だらけの12月の僕のことは嫌いでしょう。


今年一年まるまる飛び越えて、去年か来年を2年連続味わいたかった。
僕にとって今年は、最悪で災厄でした。

とか、こんな駄文で締めくくろうとしている自分に嫌気がさします。
人のせいにし、人が変わることを嫌い。
そんな人間にはピッタリの「厄」だったかもしれない。
そう思うことで、2021年を精算することが出来そうです。


恥の多い一年を送ってきました。

来年はもう少しマシな人間になります。

みなさま、今年もありがとうございました。

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