教員らしくない教員を目指して。

現在教員を取り巻く環境は大きく変わってきています。家庭教育が担っていたところも私たちの仕事に食い込んできたり、部活動についての変化であったり日々仕事の増減があります。

さて表題ですが、私が教員採用試験の面接で20分間貫き通した主張です。試験官に鼻で笑われたのを今でも覚えています。髪型、立ち振る舞い、言動、教員らしくないとよく言われる私ですが、教員を志した理由も教員らしくありません。


私のことについて語る前に、現在の子ども達の体力の現状ですが、コロナ禍になる2年前に比べると大きく体力が低下しています。新体力テストの結果から明らかにされました。ジワジワと上昇傾向にあった体力ですが、ガクッと落ちています。
「おいおい、千賀のフォークぐらい落ちとーやん!」と職員室で話題になったぐらいです。
コロナ禍なので、と片付けてしまうのは容易いことですが、学校で体力向上を担うのは主に我々ですので責任を感じています。コロナ禍でも運動したくなるように、そしてコロナ禍でも強度を落とさずに運動できる方法を私たちが伝えなければならないのです。教員らしいことを言ってみました。



先日尊敬している方のツイートやnoteを見ていると、自分が教員を志したきっかけを思い出しました。

それが表題の通りなんです。

教員を志したのはいつ頃だったのか。思い返してみると明確に「保健体育科教員に、俺はなる!」と志したのは中学2年生の頃だったと思います。

これまでに様々な保健体育科の教員に出会いました。ほとんどの先生が「体育が好きだから」「子どもが好きだから」という理由で教員をされていました。
たしかに私も子どもは大好きです。
しかし体育は嫌いでした。


振り返ってみると私が中学校に入学して初めて出会ってた保健体育の授業は、無駄に大きな声で「コエガチイサーイ」と威圧されながら走らされ体操をさせられ筋トレをさせられた後に、ポイントも一切伝えられずに技能練習をやらされて、なんとなく試合をするという授業でした。評価方法も不透明で、恐らく運動能力が高い子が技能の観点で高い評価を得ていたのではないかと思います。
まったく楽しくありませんでしたし、できるようになりたいのにできるようになるはずもありませんでした。できるようになるための時間も仕掛けもありませんでした。体育って楽しくないなと思っていました。

教員を目指すまでにはいろいろなことがありました。少し振り返らせてください。

私は長崎県で生まれた後、福岡県の田舎町で育ちました。各学年1クラスしかない規模の小さな小学校で過ごしました。中学校にはそのままのメンバーで上がります。勉強も運動も序列はほとんど変わりません。身長だけが小学校6年時に176cmと、伸び代を全て使ってしまいました。それ以降1ミリも伸びていません。
中学校1年生の時は越境通学でその学校に通いましたが、2年生になる時に越境通学を解消し、実際に住んでいる校区の学校へ転校することになります。


そんな私ですが、小学校の頃から続けている種目が一つだけあります。かれこれ競技歴が20年になります。(教員を始めてから4年ほど部がなかったため離れることになりましたが。)個人でもできる種目(もちろん団体もあります)だったので、割と強くなれてしまいました。小学6年時に県でも上位へ上がり、翌年の中学一年の時に福岡市で2番になってしまいました。まぐれです。(その種目において、福岡は全国でトップを争うチームがいくつもあるため、全国で1番の激戦区とも言われています。)思えばこのことがきっかけで、良くも悪くも人生が大きく変わってしまったのだと思います。


私が活躍してしまったせいなのか分かりませんが、同じ部の部員は活動をサボり始めます。顧問が出張ならば、当然のように部室に居座る。私はその間一人で自主練をする。「お前が勝てるのは体格がいいからだ。」「俺たちはやる気ないんだから一緒にしたくない」「なんで1人だけやる気になってるの○んでほしい」とまで。
もちろん活動の様子を見ていた他の部の顧問が告げ口をして、バレて怒られるわけです。私だけが。「どうしてちゃんと活動をしないのか。」「お前が周りを動かさないからだろ。」暴力とともに詰められます。理不尽です。事実が捻じ曲げられていたのです。「○○部は全員でサボっていた」あれ?事実はどこ?大人ってこんなものなの?大人って信用できないな。


「学校に行きたくない。何か言えば暴力をふるわれる。何も事実を言えない。」顧問に対してはこう思うようになりました。
 当時は全生徒部活動強制入部という決まりがあった学校だったので部を辞めることもできません。当然、顧問には相談できませんでした。親に相談しても、「あなただって一緒に遊んでたと聞いたよ。だから何を言っても無駄じゃないの?都合いいことばかり言わないで。」もう誰にも頼れない状況でした。親も敵でした。顧問が言い含めていたようです。

「大人は誰も助けてくれない。大人を信じてはいけない。自分だけしか頼ることができない。だったら誰にも頼らなくていいぐらい自立した人間になる。もう大人には頼らない。」当時の日記に書き記していた言葉です。中1が書く文ではないと思います。

悩みながら気持ちも上がらないままに学校に行き、部活にも行き続けました。いつも孤独でした。そんな時地方の小さな大会で、たまたま試合相手になった仲の良い友達と話す機会がありました。
「え?お前うちの中学校の校区に住んどると?」
『そうよ!今は越境して通いよるんよねー。でももう部活も辞めたくて・・・』
「え、待って、それならうちに来たらいいやん!辞めたらもったいないって!」
その手はありなのか!僕の心は(越境を辞めて住んでいる校区の学校に)転校して新たな環境で頑張りたい、という思いに変わりました。彼の一言は救いの手でした。大好きな種目を辞めるのはつらいけれど、当時の学校でその種目を続けることの方が苦痛でした。

どこからかその話をしていたと噂を聞きつけたようで、顧問(兼保健体育科担当)と当時の担任から別々に聞き取りがありました。担任には7割本当のことを話しました。顧問には全くの嘘を話しました。そのせいで、職員の間で情報が噛み合わず、顧問からは暴力を受けながら怒鳴られました。話は全く聞いていないので内容は覚えていません。もうこの人達は信用していないから話さなくていいかなと思っていました。

部員やクラスにいた人達からも「早く転校しろ」「いなくなると嬉しい」と。
家族には転校したい気持ちとこれまでの出来事を事細かに話をしましたが、母親は終始発狂していました。話になりません。親ってこんな存在なんだと悲しくなりました。スポーツ少年団の指導をしている方にも「二度と来るな。辞めろ。」と。
僕を育ててくれた人たちとの繋がりはなくなったも同然ですが、清々しい思いでした。

体育が嫌いだと言いましたが、きっと本当は、「(中学校一年生の時の怒鳴ることと体罰しかできない)体育(教師兼顧問)」が嫌いだったんです。


転校した先でも部活動を中心に充実した日々を送りました。その学校では、顧問の先生をはじめ、先生方に恵まれたので、感謝しかありません。中2、中3の2年間は部活動を中心に充実していました。先生方にも、この大人達なら信じても良さそうだ、と思えるようになりました。頭が上がりません。憧れの先生方です。この出会いがおそらく教師に向かうきっかけだと思います。


運良く部活動でも県で上位に進出し、あの一年をこの学校で過ごすことができていたらと悔いが残りながらも引退しました。3年生になり進路を決める時期になります。ここでも一悶着ありました。親との関係は最悪でした。大人は自分の損得でしか動きません。子どもさえも自分の見栄のための道具にする大人がいます。それが自分の親ならどれほどつらいことでしょうか。



さて本題に戻ります。私が教員を志したのは、これからを担っていく子ども達に私と同じ思いをしてほしくないからです。大人は信じていいんだ、頼っていいんだと安心してもらいたいんです。それでも、世の中には平気で人を騙そうとしたり心や体を傷つけようとしたりする大人もいます。そんな人達を見透かせるように、負けないように、そして誰かに頼らなくても生きていけるような自立した人間になってほしいんです。本当に助けてくれる人ってほとんどいないし、人生を切り拓いていくのは必ず自分だから。確固たる自分を作らないといけないんです。
そんな思いで今は教壇に立っています。運動やスポーツを仕事にしたい、剣道をしながら給料をもらいたいとの考えの上にこれがあります。
決してスポーツの楽しさを!とか子どもが好きだからという理由が一番ではありません。これからの世の中を生きるには必要なことだと私は判断しました。
本当は運動の楽しさや友達と過ごす楽しさや喜びをたくさん味わってほしいんです。そうする方が少しかもしれませんが人生が豊かになると思います。
それ以上に自分の中学校時代は楽しい思い出をかき消してしまうほど暗いことが大きく、楽しいイメージがまったくできません。楽しい中学校生活ってどんなもの?と聞かれても筆が進みませんでした。


教員としてのあり方や考え方を変えろと言われてもまったく変える気もありません。この考え方を貫き通して面接官にも主張して認められたから合格して、教員になっているので。「体育科なんだから」、「教師なんだから」と言われることがありますが、特に響きません。

今は保健体育科の教員として、ある程度充実しています。日々反省ですけれど。僕の未熟な指導でも、子ども達が体育を楽しいと言ってくれています。苦手な子も得意な子も、「小学校ではできなかったけど中学校の体育でできるようになった!」と喜びを共有しています。「先生私たちより下手じゃない?」といじられることもあります。
保健でも、食事の授業をした後に「コーラとポテチ我慢します!」とか発育について学習する際に見せた写真に対して「小さい頃の先生めっちゃ可愛いっすね。」とか「コウノドリのDVD貸してください。(当然断りました)」とか。この環境や関係が好きです。

大きな怒声がなくても子ども達は活発に活動しますし、見た目や言動が恐ろしくなくても雰囲気は締まります。保健体育の界隈に存在しているいわゆる集団行動を厳しくすることは教員の自己満足なんだと思います。声が小さい!動きが遅い!腕の角度は何度!そんな指導は無駄なんです。規律って集団行動ができることじゃないんです。集団行動を教えてそれが完璧にできることが素晴らしいのではないのです。そんなものは見せかけです。
保健体育科の目標にそんなこと載ってませんからね。



教員を目指したきっかけを整理していくと必ず気持ちが落ちます。それこそ千賀選手のフォークぐらい。教員向いてないなと思うけれど、僕にしかできないやり方もあるなとも思います。辞めて違う職業に就いた方が自分の長所をもっと出せるのにとも思います。

それでも教員らしくない教員を続けられればと思います。世の中の見方って人によって違います。僕は僕なりの見方で。

変わり種って世の中では排除されがちです。色んなあり方があっていいと思います。出る杭は打たれるけれど、誰も打てないぐらいに飛び出してしまいたいと思います。


楽しい学校ってどんな学校でしょうか。
充実した学校生活って何でしょうか。
教員らしさって何でしょうか。
これからも考えてみたいと思います。

2022 6/16 追記
中学2年生の時にお世話になった保健体育科の先生と出張先で一緒になりました。「お前体育科らしくないな!体育科らしくしろよ!!何のための体育科だ!」と。
この人は何も分かってないな、と思いました。そりゃあ先輩方は自分達のやり方を否定されるのは気分がよくないだろうと思います。
でもこの言葉、実は私にとっては最上級の褒め言葉なんです。しかし私も未熟者なので言い返してしまいます。
『先生のように、パワフルで世の中のイメージ通りの保健体育科教員にはなれません。我流を貫きます。もし、体育科らしく振る舞うことを強制されるなら、私を採用した面接官に文句を言ってください。このままがんばりますよ。』
恩師にこんな言葉を言うなんて、大馬鹿者!と内心思っていました。でも、私のめざす教員像って「教員らしくない教員」であって、「保健体育科らしくない保健体育科教員」なんです。
これだけは残りの30年程度も譲らずにいきたいと思います。
保健体育科教員がらしさを求めて同じような指導しかできなくなるなら、それは教員の仕事をAIに任せてもいいということになります。将来がある子ども達には色んな価値観を持った人と関わってほしいんです。家族の次に関わる大人は教員だと思います。教員が皆、同じ考え方教え方価値観だとつまらない!子ども達も同じようにしか育ちません。心豊かに育って将来活躍する大人になってほしいですね。


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