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倍速視聴を道徳的に擁護する


上記の記事、および上記の稲田の本でも示されてるように、映像作品の早送りが普及しつつある。稲田をはじめとして、こうした倍速視聴に対して嫌悪感を示す人がいる。Xで「倍速視聴 失礼」で検索すれば、数多くのそうした意見を見つけることができる。

obakewebさん(以下敬称略)は、この倍速視聴に対し、「回復可能な鑑賞」というのを提示して、擁護しようとしている。

本記事ではobakewebとは異なる仕方で倍速視聴を道徳的に擁護する。私が「道徳的に擁護する」ために批判対象としているテーゼは、obakewebの記事から引用すれば、次のものである。

(12)作者に対して失礼である:作品は作者による思想の表現である。そのような表現行為における意図をないがしろにすることは、作者に対して失礼である。(前提:他人に対して失礼なことをしてはいけない)

https://note.com/obakeweb/n/n156d95779074

私は本記事で、倍速視聴の問題を、作者からの等速視聴要求という観点から特徴付け、倍速視聴は作者に対して失礼ではないか、失礼であるとしてもその要求に従わないことは道徳的に許容可能である、と主張することで、このテーゼを否定するつもりである。

注意点として、私は次のテーゼに(少なくともこの記事では)関心が無い。

(11)鑑賞として真正ではない:作者が意図的に配置した細部を見逃すことで、映画から引き出すべきものを引き出せていない。すなわち、“ちゃんと”観れていない。(前提:映画は見るなら“ちゃんと”見るべきだ)

https://note.com/obakeweb/n/n156d95779074

obakewebも指摘する通り、テーゼ(12)は道徳的なもので、テーゼ(11)は美的なものである。仮に倍速視聴が道徳的に問題ないとしても、美的には真正な鑑賞ではないかもしれない。私自身は、倍速視聴は美的に真正な視聴でありうると思っているが、本記事ではそれを擁護しない。

obakewebの回復可能な鑑賞からの論証

obakewebは倍速視聴の道徳的テーゼも美的テーゼも、回復可能な鑑賞という観点から擁護しようとしている。まずテーゼは次の通りである。

(16)回復可能(recoverable)であればわるくない:鑑賞において作者の意図をないがしろにしたとしても、それとは別に作者の意図に基づく鑑賞経験に関して再生可能な鑑賞経験は、真正でないかつまたは失礼であるとは言えない。一定の認知能力を持った鑑賞者による倍速鑑賞は、このような鑑賞である。

https://note.com/obakeweb/n/n156d95779074

回復可能な鑑賞:厳密に作者の意図した仕方での鑑賞ではないが、そのことによって、「作者が意図した仕方での鑑賞がどのようなものであるか、およそ正確に想像・追体験すること」を妨げないような範疇での鑑賞。

https://note.com/obakeweb/n/n156d95779074

つまり、等速視聴のときの鑑賞を正確に想像・追体験できるなら、道徳的にも美的にも倍速視聴は問題ない、という議論である。

回復可能な鑑賞であれば問題ない、というのはもっともらしいが、回復可能な鑑賞が本当に可能なのかどうか疑わしい。実際、obakewebの記事に対して、他の美学者から批判が出ている(obakewebからも再反論がある)。

私が倍速視聴をするとき、回復可能な鑑賞になっているとは思えない。もちろん回復可能な鑑賞は個人に相対的なので、obakewebにとって可能なものでも、私には難しいものもある。これでは擁護が弱いと私は思うので、もっと一般化できるような議論を提示したい。

そこで本記事では、作者からの等速視聴要求という観点から、倍速視聴を擁護する。

論証の提示

私は本記事で二つのテーゼを擁護する。

  • 視聴者が倍速視聴をすることはさしあたり道徳的に許容可能である。(視聴の自由テーゼ)

  • 作者が視聴者に対し等速視聴を要求することは道徳的に正当化されない。(要求の非自由テーゼ)

以上の二つのテーゼを擁護するために、次の論証を擁護する。(これはobakewebおよび他の人が「人それぞれ論法」と呼ぶものに近いものであり、簡単に退けられているが、後で議論するようにそんな簡単に退けられるものではない。)

  1. 視聴者は作品を、他者に危害を加えない範囲で、任意の視聴法で視聴する自由がある。

  2. もし作者が視聴者に対して等速視聴要求をすることが道徳的に正当化されるならば、視聴者には等速視聴以外の視聴をする自由はない。
    (対偶:もし視聴者に等速視聴以外の視聴をする自由があるならば、作者が視聴者に対して等速視聴要求をすることは道徳的に正当化されない。)

  3. 1,2より、作者が視聴者に対して等速視聴要求をすることは道徳的に正当化されない。(要求の非自由テーゼ)

  4. Φする自由があるなら、Φすることはさしあたり道徳的に許容可能である

  5. 1,4より、視聴者が倍速視聴することはさしあたり道徳的に許容可能である。(視聴の自由テーゼ)

もし論証が正しければ、要求の非自由テーゼと視聴の自由テーゼが正しいことになり、倍速視聴を擁護できたことになる。以下では論証の各ステップを一つずつ確認する。

まず1は論争的なテーゼである。論証が成功するかどうかはここにかかっている。

2は等速視聴要求を特徴づける前提である。本記事で私は、要求を次のように考えておく。

Φすることを道徳的に正当に要求できるなら、被要求者がΦしないときに要求者は道徳的に正当に非難したり強制力を行使したりできる。

等速視聴要求というのは、あくまで要求であり、強制力を伴うものと考えている。とはいえ、作者は通常、視聴者に対して物理的な強制力を行使できないので、非難などの形態を取ることになる。

要求をこのように考えれば、Φへの要求があるならば、要求された人(被要求者)にはΦする自由がないか、少なくとも制限されていると言えるだろう。よって前提2は要求と自由の特徴から真であると思われる。

ここで作者の意図と要求の関係が気になるかもしれない。これは今後の課題だが、作者が作品の視聴方法について単に意図していることは、要求することにならないと思われる。例えば、IMAXカメラで撮影された映画作品はIMAXシアターで視聴されることが意図されているかもしれないが、そのような視聴方法が要求されているわけではないだろう。よって、意図と要求は別のものであると考える。

次に3は、前提1と2から論理的に出てくる。よって前提1と2が正しければ、3も真である。このテーゼ自体は、倍速視聴を道徳的に擁護するだけなら(つまり視聴の自由テーゼを擁護するだけなら)不要である。とはいえ、以下の節で議論するように、「人それぞれ論法」をちゃんと扱う上で、作者の等速視聴要求の自由が問題になっていることを主張しておく必要がある。
ところで、3は前提1と2が正しいことによって導出されるので、わざわざ擁護する必要は無い。しかし、これが説得的でないということによって前提のいずれかが間違っている、という帰謬法を適用する人がいるかもしれない。よって3を受け入れるのは理にかなっている、ということを擁護する必要がある。

4は、Φする自由があるならΦしてもいいのだから、当然真である。「さしあたり」は、他に何か別の強い考慮事項がなければ、という意味である。

5は結論であり、1と4が真であれば論理的に真である。

よって、論争的なテーゼは1と3である。以下では各テーゼを擁護する。

「人それぞれ論法」のどこが間違いだとされてるのか?

まずobakewebによる「人それぞれ論法」への批判を見る。obakewebは次のようにして「人それぞれ論法」を批判している。

しかし「人それぞれ論法」は、権利的な自由に基づいた倍速鑑賞が依然としてなんらかの「わるさ」を伴う可能性をまったく排除しない

ある人の自由に基づいた行動が、別の誰かの自由を毀損しうるということは、言うまでもないだろう。この場合、なんでもありというわけにはいかず、行動は外的な規範によって制御されなければならない(十中八九、それが社会というものの起源だ)。自由と多様性は議論におけるジョーカー・カードとはならない

https://note.com/obakeweb/n/n156d95779074

私はobakewebの指摘に部分的に同意する。まず、倍速視聴の自由があるとしても、倍速視聴に何らかの「わるさ」が伴うかもしれない。だがそれは美的な悪さがある(つまり真正な視聴ではないということ)にすぎないかもしれない。私は本記事の議論で美的に悪いかどうかに関心が無いので、倍速視聴が道徳的に問題が無くても美的に問題がある、という可能性を私は否定しない。しかしそのことは、道徳的にも「わるさ」があることを意味しない。

とはいえobakewebは「ある人の自由に基づいた行動が、別の誰かの自由を毀損しうる」とも指摘している。もしそうなら、これは道徳的に悪いことを意味するように思われる。

しかし、ある自由が別の自由を毀損しうるというのはそうかもしれないが、実際にそうであるかは自明ではない。私の議論の枠組みでは、ここで衝突してる(とされる)自由は、倍速視聴をする自由(視聴者にとっての自由)と、等速視聴要求をする自由(作者にとっての自由)である。すでに確認したように、前提2は真であると思われるので、どちらかの自由はないと思われる。そのため、一般的にある自由が別の自由を毀損しうるケースがあるとしても、本記事で特徴付けたような要求と自由の観点からは、どちらか一方の自由はそもそも存在しない。

作者には等速視聴要求の自由はない

作品の任意の視聴方法を要求する自由

まず、等速視聴要求の自由は、より一般に、作品の任意の視聴方法を要求する自由から導かれると思われる。もし作者が任意の視聴方法を要求する自由を有しているなら、当然、等速視聴という視聴方法を要求する自由を有しているはずである。

だがこの一般的な自由があるというのは疑わしい。例えば、映画作品が映画館で見られることを作者が要求しているとしよう。このとき、視聴者が映画館以外で映画を見る自由がなく、映画館以外で視聴することは作者に対して失礼である、とはならないだろう。この要求は過剰要求であり、そのような自由はないと思われる。

よって、任意の視聴方法を要求する一般的な自由を作者は有していない。仮に何かあるとすれば、作者が有しているのは特定の視聴方法を要求する自由にすぎない。ではそれは本当にあるのだろうか?

作品のある特定の視聴方法を要求する自由

本記事で関心があるのは等速視聴要求なので、等速視聴要求という特定の要求をする自由があるかどうかを考える。

まず、そのような自由が無いと思われる消極的な理由として、倍速視聴が技術的にもサービス的にも容易になってから、途端にこのような自由が生じたとは考えにくいことがあげられる。Netflixが登場する以前から、映像再生機器には倍速視聴機能が実装されていた(私は幼少期にそのような映像再生機器で1.2倍速くらいでTVコンテンツを見ていた)ので、このような技術的機能の実装とともに等速視聴要求の自由が生じた、ということになる。だがこれはあまり説得的ではない。

もちろん、特定の技術的進歩によって可能になった選択肢に対し、そうしないよう要求する特定の自由が生じることはある。例えば、コピーガードを回避する技術が可能になったために、その技術によってコピーガードを回避しないよう要求する自由が生じることはある。しかしこれは、コピーしないよう要求する(いわゆる著作権関連の)一般的な自由が先にあり、そこからコピーガードを回避しないよう要求する特定の自由が導出されているケースだと思われる。

よって事前に一般的な自由がないならば、特定の自由が途端に生じるとは考えにくい。一般的な自由がないことは上記で議論した通りなので、特定の視聴方法を要求する自由もない。もちろん、議論の蓄積や法整備によってそうした特定の自由が獲得されることはあるが、技術が完成し普及した途端に生じるわけではない。

したがって、作者から等速視聴要求をする自由はそもそもないと思われる。よって、論証の3を受け入れるのは理にかなっており、帰謬法を免れることができる。
次に、最も論争的かもしれない前提1、すなわち視聴者側の自由を考える。もしこの前提1が正しければ、前提2と4も正しいので、論証の3および5も正しいことになる。

視聴者には倍速視聴をする自由がある

以下では、視聴者が任意の視聴方法で視聴する自由を危害原理から擁護する。危害原理とは、J・S・ミルという19世紀の哲学者の『自由論』という著書の中で提示されたアイデアである。

本人の意向に反して権力を行使しても正当でありうるのは,他の人々への危害を防止するという目的での権力行使だけである。

J. S. ミル『自由論』[関口正司訳]

例えば、個人が自室で一人で作品を倍速視聴し、作者に知られることがないとすれば、通常は誰にも危害は加えていないと思われる。もしそうであれば、危害原理が正しく(そして危害原理は極めて説得的であり)、倍速視聴が誰にも危害を加えていなければ、倍速視聴をする際に介入される(つまり等速視聴を要求される)のは正当ではない。よって、倍速視聴をする自由がある。

ここで「作者に知られずに」という制限は重要である。もし作者が等速視聴を希望しており、倍速視聴があることを知ったときに苦痛を感じるとしよう。これは作者の福利を下げているため、危害を被っている。この場合、作者に知られるような倍速視聴をする自由があるとは言えない。

このことは、倍速視聴をする自由一般がないことを意味しない。作者に知られるというケースで重要なのは、倍速視聴をしたかどうかではなく、倍速視聴をしたということを公言したかどうか、少なくとも作者に知られる形で発言したかどうかである。
作者はおそらく、倍速視聴の公言から倍速視聴の存在を知ったはずである。そうであれば、危害になっているのは倍速視聴そのものではない。倍速視聴していなかったとしても、倍速視聴したと偽の公言をすれば、この作者は苦痛を感じるはずである。また倍速視聴していたとしても、それを作者に知られなければ作者が苦痛を感じることはない。よって、公言することが作者に対する危害なのであって、倍速視聴自体が作者に対する危害になるわけではない。

よって、作者に知られてしまうような倍速視聴をする自由はない。倍速視聴は、個人的に行われる範囲で、自由である。

以上の議論が成功していれば、論証の前提すべてが真である。論証を再度確認する。

  1. 一般に、視聴者は作品を、他者に危害を加えない範囲で、任意の視聴法で視聴する自由がある。

  2. もし作者が視聴者に対して等速視聴要求をすることが道徳的に正当化されるならば、視聴者には等速視聴以外の視聴をする自由はない。
    (対偶:もし視聴者に等速視聴以外の視聴をする自由があるならば、作者が視聴者に対して等速視聴要求をすることは道徳的に正当化されない。)

  3. 1,2より、作者が視聴者に対して等速視聴要求をすることは道徳的に正当化されない。(要求の非自由テーゼ)

  4. Φする自由があるなら、Φすることはさしあたり道徳的に許容可能である

  5. 1,4より、視聴者が倍速視聴することはさしあたり道徳的に許容可能である。(視聴の自由テーゼ)

1は危害原理から擁護した。3は、前提1と2が真であれば導出されること、また作者に等速視聴要求の自由がないことを直接擁護することで帰謬法からの批判に対処することで擁護した。これにより、前提すべてが真であるため、5も真である。よって、視聴者が倍速視聴することはさしあたり道徳的に許容可能である。

論証の一般化

以上の議論より、倍速視聴を道徳的に擁護した。本記事で提示した論証をさらに一般化してみる。

本記事の論証の1は、視聴者が任意の視聴法で視聴する自由がある、というものであった。さらに論証の2と3についても、作者には、等速視聴要求をする自由がないだけでなく、おそらく、任意の視聴方法を要求する自由一般がないことも示されている。
よって、この論証の擁護が成功しているならば、倍速視聴以外の視聴方法も道徳的に擁護できるはずである。例えば、10秒飛ばし、チャプター飛ばしなども道徳的に許容可能であるといえるかもしれない。

これはobakewebの議論より広範囲な視聴方法を擁護できることになる。obakewebは回復可能な鑑賞から擁護していたが、回復可能な鑑賞からの議論はその性質上、10秒飛ばし視聴などを擁護できない。さらには、当人にとって本当に回復可能な範囲の視聴方法しか擁護されない。
対して私の議論が正しければ、倍速視聴だけでなく、10秒飛ばし視聴を含めて、他の多くの視聴方法を擁護できるはずである。

よって私の考えでは、本記事の議論によって、倍速視聴だけでなく、他の多様な視聴方法を道徳的に擁護できる。これが本当に成功しているかどうかは今後研究するつもりである。

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