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小さな勇気でも行動は変えられる

勇気は人が生きていくうえであったほうがいいものだ。
数多くの物語で勇気の大切さが語られている。
自己啓発系の本でも、自分を変える行動には勇気がいると書いてある。

恐怖や不安を感じると行動できない。それに打ち勝つのが勇気だ。
ともすると、「恐怖や不安を上回るでかい勇気をもて」という精神論にいきつきかねない。

勇気は欲しいときに出てくるわけではない。「勇気を」と願って勇気が出るならどれほど楽だろうか。
それができないから苦しむのだ。勇気が足りないと言い訳をしてしまうのだ。

勇気が湧いてくる魔法なんかない。
恐怖の感じ方を小さくする方が現実的だ。

勇気が湧く=恐怖の減少

勇気と恐怖はセットになっている

目的を達成するためにとるべき行動はわかっているのに、恐怖や不安の感情が心理的ブレーキをかけてしまう。
それを乗り越えるために私たちは勇気を必要とする。

つまり、恐怖や不安の感情がなかったら勇気は発生しないわけだ。

では、勇気は感情なのだろうか?
恐怖や不安に対抗するために勇気が役立っているのは間違いないが、感情とは少し異なるように思う。

感情は行動に結びつかなくても、あとから「あの時、実は悲しかったの」などと言える。一方、行動していない状態で「あの時、実は勇気があったの」とは言えないのである。

勇気とは動機である

動機:人間がある状況のもとでその行動を決定する意識的・無意識的な原因

恐怖をともなう状況でどう行動するかを決定する動機が勇気だとも考えられる。

いくら勇気のある考えを持っていても、行動に移さなければ客観的には臆病なままだ。
行動を起こした場合にのみ勇気が発揮されたと表現される。

恐怖を感じると、勇気に例えられる闘争か臆病に例えられる逃走の選択肢が与えられる。
勇気という動機を選んだ結果を、「勇気を出した」と呼ぶのだ。

では、勇気を選ぶ具体的な意味はなんだろう?

勇気とは不確実性の消去である

不確実な未来に対して結果を出そうという意思決定が勇気なのではないか。
未来へのコマを一歩進めて、他の選択肢を消去しようとする行為を選ぶのが勇気だ。

たとえば、好きな人に告白する場面、勇気のいる行動だろう。
好きな人と付き合いたいが、フラれるかもしれないという恐怖がある。
相手が自分のことを好きかどうかはわからない。
現状維持を選べば、結果は不確実なまま先延ばしにできるし、恐怖を感じずにすむ。可能性の世界へ逃げ込むことができる。
告白という行動を選べば、結果はどうあれ相手の気持ちを明確にできる。

未来を切り開こうとする動機があった場合に、勇気ある行動選択ができるようになる。

「だからその勇気が出せないんだってば」と言いたくなるのもわかる。なぜなら我々は勇気を美化する物語に触れすぎてきたのだ。
勇気が立派で称賛されるべきもので、それを持たない者は臆病者扱いされる。まるで教育されたかのようにそう思ってしまう。

勇気は二次的なものだ。そこに注意をもっていかれてしまうのは時間の無駄だ。根源の恐怖や不安の感情にこそ焦点をあてるべきなのだ。

勇気を出す方法

精神論で勇気を出そうとしても無駄である。
勇気は急には湧いてこないし、急に増加することもない。
ただし、あなたは勇気を持っているし、勇気を育てることもできる。

恐怖や不安が大きいほど、行動を起こすためには大きな勇気が必要だ。

ここにヒントがある。
勇気の大小とはすなわち恐怖の大小である。
恐怖の感じ方の大小である。

大きな勇気ほど評価される傾向にあるのがおかしい。
ほんとうは、恐怖の感じ方を小さくすればいいだけなのに。

対象の脅威を小さくして、自分のもつ勇気で対応できるサイズにする

●同じような状況で成功した体験をさがす
過去に同じような状況は無かったか、他の人が同じような状況は無かったか勇気は伝染するというのもこれだ。

もし失敗した場合の効果や影響度合いを再考する
自分が思っているよりも失敗による悪影響は小さいかもしれない。失敗した場合の対処方法を想定することも効果がある。

●挑戦を繰り返すことで勇気を育てる
何度も同じ状況を学習してしまえば、予測可能となり不確実性も薄れる。そうなると恐怖も感じにくくなる。

●脅威を対処できるレベルまで自己鍛錬をするか助けてもらう
成功までのプロセスを明確化して、足りない部分を補う方法を考える。自分の努力で解決できるものはがんばればいいし、他者の支援によって成功率が上がるなら利用しない手はない。

勇気が湧く=恐怖の減少

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