あなたの日常が、読みたい
最近になってやっと気づいたことがある。
「僕は、他人の生活をのぞくことが好きだ」
もちろん、リアルでの話ではない。noteにおいて、である。僕がnoteに書くことが好きなのは1年ほど前からわかっていたが、他人のnoteを読むこともおなじぐらい好きだった。
世のなかには、おもしろい文章を書く人は山ほどいる。ただ、そのことに気づいてはいたがそれが「どういう文章がおもしろいのか」というと明確なこたえをこれまで持ち合わせてはいなかった。
それが、noteを書くにつれて読むにつれて、「見ず知らずの他人の日常」がものすごく旨そうに見えてきた、というわけである。
もちろん「有益そうな情報の記事」を読むこともある。だが、タイムラインに両方ならんでいて、時間的にひとつしか読めない、みたいな状況があったら僕はまよわず「日常のほう」をえらぶみたいだ。
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僕は、記事を読んだら「読みました」という報告の意味をこめてスキをするようにしている。よっぽど合わない記事があれば読んだままにすることも稀にあるが、基本的には読むだけでなくなんらかのアクションをとるようにしている。
時間が経ってながれ去ったタイムラインを巻きもどすことまではしないが、できるかぎり(書かれてすぐの)新鮮なうちに読むようにしている。つまり、読むか、読まないか。読みたいか、どうなのか。そのときの基準になるのが、「日常」、すなわち「その人らしさ」があるかないかのちがいだったりするらしい。
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いま僕は、ショッピングモールにあるフードコートでこの記事を書いている。祝日なので人はわりかし多い。
2〜3歳ぐらいの男の子をひとりつれたお母様が、僕の目の前の席にやってきた。男の子は「サーティーワンのアイスクリーム」をひとつ手に持っている。席につくや、彼はもくもくとアイスクリームを食べだした。視線は手元のカラフルな食べ物にのみ向いている。一方の、お母様はなにも食べていない。息子の愛らしいようすをこれまた熱心に見つめている。
こういう情景は記事になる。noteに書きたくなる。
他人の生活を見て僕が書く、これが僕のnoteである。他人の生活を見た他人がそれを書く、これが僕の読みたい理想のnoteだ。
その背景には、「欲求の根本」があるようにおもう。
となりの芝生は青い、というようにどんなに生活レベルを変えようと、結婚しようと、しごとで成功しようと、「他人の生活」からはどうして魅力的な香りがするものだ。それをかならずしも参考にしようとかそういうわけじゃなくて、「みんな毎日を生きているんだな」それを実感するのがたまらなく美味しい。
であればこそ、他人を観察することは飽きないものだが、時間的、もちろん倫理的にも限界がある。
noteによって「日常にひそむ苦悩や幸せ」を共有することによって得られるものは、(少なくとも僕にとっては)あまりにも大きい。
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