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ミニマリズム、僕なりの考え

ミニマリズム。

人々が身も心も一新したくなる季節だからなのか、この言葉を最近はよく耳にするようになった気がする。いや、以前までも聞いていた、というよりも僕がすすんで情報をとりにいっていたのだが最近はとくに、という話である。

数年前に、たまたまオススメ表示されたYouTuberのVlogブイログをいまだに毎週チェックしている。彼は、僕が見つけた当時はみずからをさして「ミニマリスト」と称していた。しかし、現在はそう名乗ることをやめているという。さらにそれだけではなく、「モノを捨てて身も心も気軽に生きたいという本質はいまも変わらない。ただ、ミニマリストはあくまで無名の自分をタグづけするための肩書きにすぎなかった」といつかの動画で話していた。だから、(ある程度、知名度があがった今となっては)「ミニマリスト」と名乗ることはもうないし、そう呼んでほしくもない、とも言っていた。

たしかに、自称すること自体にさしたる意味はない。もちろんやってもいない「ウソの肩書き」をつかうのは論外だが、たとえば「エッセイスト」など明確な基準のない肩書きのばあいは、noteに記事をいくつか書いたらもう「エッセイスト」と名乗ることにはばかることはそうないような気がする。

「ミニマリスト」も肩書きといえばそれまでだし、なにもない自分を表現するのに(もともとミニマムな気質がある人ならば)こんなに手軽な手段はないような気がする。

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さて、ミニマムに暮らす、いわゆる「ミニマリズムの本質」とは何なのだろうか。

たんなる肩書きや、必要最小限しかモノをもたない生活、そんな単純なものだけではないはずである。

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実家でくらしているときから僕のモノは少なかった。その反面、家族はモノを捨てることに大変な苦痛をともなうようで。というより、いらないモノを手放すということにたいした意義を見出していないともいえる。「何で手放す必要があるの?持ってたらいいじゃん」この調子だ。

だから、学歴も年収も人生経験も、何もかも見上げるべき存在であった父母姉なのだが、「片付け・整理」にかんしては僕のほうが優秀だと食べさせてもらっている身ながら本気でそうおもっていた。

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ミニマリズムの本質は、「選択と集中」にあるようで。ただ、僕自身はそういうことを念頭にいれて捨てたり手放したりしているわけではない。僕をうごかす原動力は、いうまでもなく「気持ちがいいから」。いらないモノを手放して、ほんとうに必要なモノ・コト・ヒトをのこしていく。僕のまわりを「好き」で満たしていく。

しかし、たしかに、お金を払って買ったモノを捨てるのは勇気と覚悟がいるのもまた事実だ。手放してもまた買えばいいという発想は、この平和でゆたかな時代の恩恵であることはまちがいがない。ただ、それでも勇気と覚悟をもっていらないモノを手放した先にある「清々しさ」、そしてそれ以上に、好きなモノ・コト・ヒトだけを存分に愛して暮らすという「もたない贅沢」もできる。

おもえば僕が約1年ほど前に、以前勤めていた建設会社をやめて図書館で働こうと決意したのも、根本はそこにあるのではないかと今おもえばそう感じる。「どうせ働くのなら好きな仕事を。いや、もうこれ以上好きでもない仕事を続けてなんかいられない」ありのままを書けばこういう気持ちだった。

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本を読んだり、人の話を聞くだけでは自分事じぶんごととして捉えることができなかったミニマリズムの(僕なりの)本質。意識はせずとも、ちゃんと体現できていたようでホッとしている。

これからも勉強をつづけて行動していきたい。そして、何より、ミニマリズムの源泉だともいわれる「禅寺の教え」。これが、おもしろいほどに僕の心にストンとおちる。だから、もうやめようにもやめられないのが僕とミニマリズムの関係だったりする。

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