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合理的すぎると疲弊する。必要なのは不合理な贈与(近内悠太:世界は贈与でできている)

読み始めたきっかけ

「贈与論」は、前に読んだ「チョンキンマンションのボスは知っている」などでもとりあげられてた人々との関係性とか繋がりを生むキーワードで、気になっていたから、タイトルをみて「へー」と思っていた。あと山口周さんが「面白い」とコメントしていたため、後押しされAmazonで注文した。

贈与と交換は、どう違うのか

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贈与は、見返りを相手に求めない行為であること。
交換は、お互いに等価なものをギブアンドテイクする行為。

もう少し詳しく。

贈与は見返りを求めないので、贈り主もあえて「わたしがギフトしました」と声高らかに主張しない。相手が「あ、これってギフトだ」と気づけば良いし、気づかなくってもよい。そうゆう不確実なやりとりなので、お金に換算もできないし・計算不可能な行為。

そして受け取った側は少しばかり、「あー。もらってしまったな〜」と負い目を感じる。(これが大事)

1つポイントなのは、「誰かから受けた贈与に対しての返礼として行為」でなければ贈与は呪いになってしまう。どうゆうことかというと、自分が贈与を受け、それに気付いた人が、他者にその贈与をパスする(返礼)ことでしか贈与できない。誰かから受けた贈与にたいして「負い目」を感じているから、他者に返礼することで負い目から開放されるからだ。

負い目がない状態で自分が贈与し続けると、その人が一人で疲弊してしまう。

対して、交換。

これに「負い目」がない。なぜなら「ギブ&テイク」で、お互いに何を交換するのかが明確で、自分がギブしたものは後々しっかり回収できる見込みがあっての行為だから。その目的に同意がなければこの交換は成立しない。

ただ、この交換には1つ課題がある。「交換し合う」という前提の世界では「交換できるもの」を持ち合わせていない人は参加ができない、孤立してしまう社会になる。

なんでも交換できる都市と、交換できないモノと

個人的に思うのは、都市に行くと「お金で交換できるもの」がとっても多い。いろんなものがサービス化されていて、たとえば「レンタル彼女」とか「話を聞いてもらう」とか、そうゆう体験まで買えてしまう。なんでも買えちゃうなと思う。

地方などサービスがすこし足りない場所などに行くと、そもそも都市で手に入るものが手に入らなかったりするけれど、自分で工夫したり、ご近所さんと協力して手に入れたり、手助けしてなんとかするというシチュエーションも多くないだろうか?(自分の経験談)

お金で支払っちゃえばすぐに手に入る体験やサービスは便利で時間の節約にはなるけれど、なんだか人の顔が見えないから味気ないなと思ってしまう。ちょっと手間がかかるとかめんどくさいけど、人の顔やコミュニケーションが見えるやりとりは贈与的で、これは対相手との信頼関係が必要。めんどくさい、けど、なんだかそこには「自分」と「相手」の顔が見えることが安心する。

コスパの良いボランティア

20代くらいの方々には今、ボランティアが流行っているという話もかいていた。ボランティアは「コスパが良い」のだそうだ。対して、献血は「コスパが悪い」。

どうゆうことか?ボランティアは、行った当日にその場で感謝されたり、自分がやったことの実感をえられる。でも献血は、誰に対してどのように役に立ったかの手応えがない。だからコスパが悪いという話らしい。これはボランティアという形をみると無償なので贈与っぽく見えるが、「感謝されたい」「ありがとうといわれたい」という返礼を求めた行為なので交換といえる。つまりありがとうって言われなくなったら、やらないってことなので、そのボランティア行為自体に意義を持っているわけではないのだ。これは自分に対しても、思い当たるところは多少なりある

「無償の愛」が矛盾を生む時

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「無償の愛」の下りは私がすごく共感できた部分の1つ。私は親に大変お世話になったと思っている。その分、10代20代のころは「こんなに良くしてもらっているのだから、親が喜ぶような活躍をしなくては」というプレッシャーが結構あった。「愛されるべき根拠がない」という負い目がすごかった。

ただし、親は「見返りを求めない贈与」として愛を注ぐことがほとんどだから「返礼」は求めてないはず。でも子供ってゆうのは「負い目」を感じちゃうんだよな。

一方で「見返りを求める」親もいる。こんなけ育てたんだから、大学に通わせてやったんだから、老後の世話してねとか、結婚をして子供を産みなさいとか、家の跡を継ぎなさいとか。それは愛ではなく、返礼を求めているので贈与にみえちゃうけど「交換」である。

「あなたのこと好きよ、でもあなたは私をわかってくれないよね?」の背景

こんなセリフも、まぁまぁよく聞く。私はあなたのことが好き、あなたも私のことが好き。だったらわかってくれて当然でしょう?という、条件付きの脅しみたいなもの。これも一見愛情表現にみえるけど、愛情でも信頼関係ではない。一種の交換。ものを交換しているわけではないけど、思い通りに人をコントロールしようとしている。

「愛」とは、不合理なもの。疲弊を生むなら与えなくていい

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なので、合理性が背景に潜んでいるとそれは愛(贈与)ではないと思ったほうがわかりやすい。合理的な理由がある場合、等価な見返りを求めて疲弊してしまうのだ。また、自分がだれかから贈与を受け取っていないのに他者に見返りを求めず贈与し続けても、それは疲弊してしまう。なぜならあなたは受け取ってないのだから。

「じゃあ、一生だれからも贈与をうけとらなかったらば、誰かに贈与できないってこと?」って疑問がわいてくるのだが、、

「交換」があるからこそ「贈与」が生き生きとする

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だから贈与オンリーを歌うわけではなく、交換をベースにしている今の市場経済の隙間に贈与が生まれることで、そのやりとりが逆に際立つ、大事さに気づくことができる。なので市場経済を否定はしない。

スピードが早くて、効率もものすごくよくて、AIに仕事が置き換わっちゃってあらゆるものがサービスとしてお金と交換できてしまう社会の中では、「交換できるものがない」人たちは孤立してしまう。だからそれだけではなくて、ゆるやかに「交換しなくても分け合える贈与」がすきまに必要なのだ。

贈与を受けたことがないなんて人も、いつのまにか、巡り巡って贈与をうけていたと気づく。そうゆう隙間がちりばめられた社会であれば、つながりを絶たずに、もうすこし心をゆるやかに生きていけるのではないか?

さいごに:自分はいつのまにか受け取っていたのだと気付ける知性

ここで一番大事なのは「自分は贈与をうっかりと受けてしまった」と気づく想像力だ。想像力を広げると、あらゆるものから受け取っていることに気づく。でもそれには学び続け、知ること、きづくことの知性が必要になると書かれていて、その「気づく力」感受性のアップデートがこの贈与論で最も大切なのではないかと思った。

ちょっと路線が変わるが、仏教でも「これは天の恵みだ」と気づき、その恵みを巡らせる、とか。昔の賢い人はそうやって感受性を高めて気付いていたのかもしれないなと思う。贈与とはそうゆう意味で、時間が遅い。でもその遅さを大切にしたいと思った。

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