身近で具体的なことに力を注ぐ(西村佳哲:いま、地方で生きるということ)
この本を読み始めたきっかけ
私は今回取り上げる「いま、地方で生きるということ」の著者 西村佳哲さんの本は全て読んでいる。結構影響をうけていて。そもそも影響をうけたきっかけは「自分の仕事をつくる(西村佳哲著)」という本との出会い。この本に24-5歳で出会い、当時仕事に悩んでいた自分は「これだ!」と衝撃を受け、Living World主催の泊まり込みインタビューワークショップにも参加したことがある。
ちなみに 当時25歳だった私には、見ず知らずの人達と5日もすごすワークショップに参加するという事自体がかなり大きな決断を必要とした。(そして価格も当安くはないので覚悟も必要だった)結果、行ってすごくよく、出会った人の何人かは10年ほどたった今でも交流が続いている。
話はそれたけど、
西村さんは「どこでいきる?」「どうはたらく?」「だれと一緒に?」みたいなテーマで、様々な働きをしている人たちのインタビューを本にまとめてくれている。
今回の本は「地方で生きる」というテーマで、全国転々とインタビューしながら過ごしそれを1冊にまとめた本。
震災を経て、あらためて自問した―。「どこで働く?」「どこで生きる?」わからなさを携え、東北、九州を巡った旅の記録。『自分の仕事をつくる』などで「働き・生きること」を考察してきた著者が、「場所」から「生きること」を考えた、働き方研究家の新境地。
とのことで、まさに「場所」を中心に話は展開している。のだけど、意外と読み進めていくうちにそこまで「場所」に執着を持っている人ばかりではない。
私も今回、「改めてもう一回読んでみるかー」と思い立ったのは 自分が東京ではなく「兵庫」というちょっと中心都市からは離れた(とはいえど田舎でもない)ところに暮らし・仕事をしているから。
「新型コロナウイルス」の影響で「都市ではなく、地方で」って考え方がまた浮き上がってきてきているのもあって 改めて「中心都市」から距離をとった暮らしをしていることに考えを寄せてみたいと思い。本の中で気になった言葉を振り返ってみたい。
地方 対 東京ではない。
自分が見渡せる範囲で、具体的なものに力を注ぐ
p232の田北さんの言葉を抜粋する。
「これからは地方の時代」といった言葉をよく耳にして来たけど、僕は全然ピンとこないんですよ・中央に集められた権利や利益を取り戻す時代なんだ、とか行っていたら何も変わらない気がして。「時代」という言葉を使っている時点でいつか終わることを含んでいるし。とてもぼやっとした言い方だと思う。僕に見えているのは、"身近で具体的なものに、エネルギーと時間を使う人が増えてきている"ということです
今回も、「脱中心・これからは地方だ」という言葉もどこからか聞こえてきたけど、そうやって東京対地方と分け隔てることは、これからのやり方ではない気がしている。
都市中心のものさし
ただ一方で「東京などの大都市のものさしで、その土地の魅力や価値を図る」ということはしなくなると思う。今までは、都市部が考えた政策や計画を地方に展開して国家の成長や行政サービスを充実させちょうとしてきた。ただ、次世代ガバメントの記事でも書いたけど、今後は脱中心化し、地方分権に近づく。地方と都心の協力体制のもとで行政サービスを支えることになるのでは?と思う。
なので今までは東京のものさしで地方の価値というものを測定していたのだけれど、それはやっぱり比較できるものではなくて。そのものさしを持っている限り、地方は「東京ほどではない地方」という位置づけになる。
だから各地に適切なものさしをもって、土地に根ざした暮らしや経済圏が回っていくと思う。
だから、「"身近で具体的なものに、エネルギーと時間を使う人が増えてきている"」という言葉にもすごく共感できる。自分が暮らしている土地に対して、具体的に行動し時間を費やし、良くしていきたいんだという気持ちを自覚的に持って暮らしていくこと。
「身近で具体的なもの」へエネルギーと時間を使った5月
たとえば、数ヶ月前はコロナの影響で「近所のカフェ」や「商店街の鶏肉屋さん」を応援するために(というか潰れてほしくないから)テイクアウトを活用したり、農家さんから直接野菜を買ったりした。
体調を整えるために自炊し、適度な運動も取り入れ、家で過ごすことがおおくなったから「暮らしやすい環境」へ投資する人も増えた。自分の生活の一部をとても大切にしたし、半径5キロ圏内で生活していた時期でもあって「私達の住んでいるこの場所を少しでも良くしよう」という気持ちになった。
今年に入って、「場所」に対しての考え方が変わった人も多そう
お金で買えないもの
そうゆう「変えていこう」という気持ちや、「生活をよくしよう」という工夫は、直接お金では買えない。けど、自分たちの体験を通じて得た想いを分かち合うとか、行動に移すとか、その行為自体が豊かだなと思う。
お金を支払って人を動かせば、効率的ではあるんだけれど。私達はどこまで「効率的」で「生産的」である必要があるんだろう? 「自分たちの体験」というのは結局、自分たちでうごいて手に入れるしかなくて、それは結構遠回りすることでもある。そして体験を通して得た想いとか、かかわり合いの中でしか感じ取れないものもあるんだよなぁ
自分も、相手も、生かして生きるとは?
p312の徳吉さんの言葉
相手に役割を求めないとか、相手を道具のように扱わないとか、目的を優先させることで相手や環境を手段化しない、というようなことを馬との関係についてもできればいいなと思い、彼らと日々を過ごしてきました
馬との関係を語ったことばだけれど、これは人と人、人と環境にも言える言葉だと思う。ビジネスをしていると、どうしても「等価交換」の要素が強くて、相手を道具のように扱うというか・目的ベースでその人のスキルや知識を活用するということはすごくあると思う。
手段化されるということは、その人自身がサービスになるということ。
その間には「お金」でつながっている。そうゆう手段化された関係性が続くと、人は疲弊する。求められるサービスを返礼しないといけず、そこに「その人」の思いが入る余地がなくなってしまうし、代替可能なリソースとしてすり減っていく気がする(他者と働く──「わかりあえなさ」から始める組織論 にも通づる内容)
地方で生きる、ということは 必ずしも各自が対価サービスのある職能をもっているとは限らないというか、それが求められる土壌もなかったりするんじゃないかなと。あと、職能が細分化されていない分、結構多様なフィジカルが発達する笑
「成長とは自分が安心していられる空間が広がっていること」(p367)という言葉にも共感するのだけれど「自分のフィジカルな体験」を、本当にいろんなアプローチで通ることができる。で、適材適所でもなかったりするんだけど、だからこそ「今いるこのメンバーでできることをやろう」と、目的人ベースではなくて、人ベースで実行していく。そこには、手段よりも想いが先立っているからすり減りにくいんじゃないだろうか
スタートアップも地方っぽい
と、ここまで書いて スタートアップの面白いところも 「今、自分たちでできることを、自分たちでやる」という、めちゃくちゃ柔軟にフィジカルなところが面白いのかも。働く人を生き生きとさせているのかも、と思った。
サバイブする、という意味でスタートアップもある意味、都会の中のマイノリティ・地方?なのかな。なんの話だっけか。笑