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「賢者」とは自分が楽しめる領域を広げられる人:エチカ(スピノザ)

今回の読書だよりはスピノザのエチカ。

もともと哲学は興味があり、とはいえそこまで深く知っているわけではなく、好奇心で「エチカ」を真っ向から読んだこともあるのだが難解すぎて全く理解できなかった経験を持つ。。
今回はエチカの解説として「100分de名著」でとっかかりを掴んだ。初心者入門の良い本。(しかも國分功一郎先生の解説なのですごくわかりやすい!)

この本を読むときに、どんな問があった?

以下の2点の問をもって読み進めていった。あたりまえにエチカの理解も含めながら

1)スピノザという哲学者は、アーティストや文学者に支持されているように思う(勝手な偏見だけれど)。どのような部分で、共感を得ているのだろう?
2)「自由に生きる」とはなにか? エチカを通じて「私が自由に生きる」とすると、何が必要なのだろう?

この2点の問いに対して、読み進めようと思う。(途中で疑問や新たな問はたくさんでてくるんだけど)

汎神論(はんしんろん):すべては神=自然の中にある

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スピノザの代表的な考え方に汎神論(はんしんろん)というものがある

神すなわち自然。すべてのものは神であり、神は外も内もなくて無限。私という人間も、道端に咲いてる花も、寝ている猫も、すべておなじく自然であり神なのだ、という考え。

「神」という像をあがめている宗教からすると、「自然=神」なの?それって神不在ってことよね?ということで無神論とも呼ばれたらしい。

ここで私がいいなと思ったのは「自然の中にあるものは、もうすでに完璧じゃないですか」という考え方。

「すべての個体はすでに完璧」

自然はそんな風に寛大なのに人間は、あの人はここが足りないとか、違うだとか、変わっているだとか、不完全さに目を向ける。良い悪いの判断をして、正常と異常の比較をすることで偏見を起こす。これは観念によってただただ生み出されたもの。そもそも自然の中には、完全・不完全なんて分け隔てはなく、全てがそのままに育ち生きるのは、判断する観念がいないからです。

2020年6月でも、偏見や判断をしながら生きている?

今、アメリカで起きているBlack Lives Matter(黒人の命も重要だ)運動運だって関連づけできる。白人と黒人は違う、こいつはいいやつわるいやつ。そうゆう観念から比較を勝手に起こして「障害判定」すれば、それを排除しようと警察がうごいたりする。なんでそんな判断をしてしまうのだろうか?

多様性を生かして生きる、とか。持続可能な社会を、とか。崇高な考え方の前に、リアル世界の観念はちょっとばかり複雑にみえる。

コナトゥス:自分であろうとする力=本質

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「コナトゥス」もエチカの中ではかなりのキーワード。以下Wikipediaから

原義は努力、衝動、傾向、性向、約束、懸命な努力)はかつて心の哲学や形而上学で使われた術語で、事物が生来持っている、存在し、自らを高めつづけようとする傾向を言う。

コナトゥスは、刺激からの反応をもって力になる。自分を元気にさせてくれる。生来私達が個別にもっている性質のこと。
これは人それぞれ全く異なる。

自然はそのままで完全な存在なので、生来持っているコナトゥスが何に反応するのか?いきいきするのか?を知っていき、それに合ったアプローチで生きていくことが「自然=神」を大切にして生きることになる。生来の場所に近づくために研ぎ澄ませていくということだと思う。

ただ、それは実験しないとわからない。なにかに触れたり、関わったりするなかで自分の心の反応を感じなければ「これに自分は触発されるんだ」なんてわからない。実体験を通じていかないと知るすべはないから、スピノザは「どんどん実験しろ」という。むしろ「実験することでしかわからないんだから」と。

自分がどのようなコナトゥスを持っているのかを知っていること

ここで好きな下りがある。「賢者」に関して説明で、

「賢者」とは、楽しみを知る人、いろいろな物事を楽しめる人、他人のコナトゥスを尊重できる人。

自分の楽しみを知り、様々なことから楽しみを感じ取る知性があること。そして、他者の楽しみにも想像力をもって尊重していける。その存在が完全だと知っているからできる営みだなと思うし、自分自身で考えても「自分が心地よい場所や空間、物事」を知って、しっかりそれに時間を注いでいる人は魅力的だなと思う。人としてのエネルギーが高い。

あぁそうか。そうゆう人は生来の素質を生かして 自分であろう=本質であろうとすることで、きっとエネルギーの巡りが良いのだ。だから、若々しく感じるのかもしれない、なんて思う。

自分のコナトゥスをしっかりと実験を通して知り、それを生かしながら生きることの積み重ねが、そうゆう 生き生き という感じに現れるのだ

スピノザが支持される理由

1)スピノザという哲学者は、アーティストや文学者に支持されているように思う(勝手な偏見だけれど)。どのような部分で、共感を得ているのだろう?

最初に上記の問いをたてて読み進めたが、自分の「コナトゥス」を知るために惜しみなく実験し、知り、楽しみの領域を広げて生きるというのは、表現社の人々に自ずと多くなるのかもしれない。スピノザの言う「賢者」は、「自分の本質」を知り楽しめる人。そして他者のそれも尊重し、他者も自分に対しても「判断」をせず生きているんだろうと思う。

自由意志は存在しない?なら私達は、なのをもって意思決定しているのだろう

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ここまで「自分の本質を大切に」と語ってきたが、「自由意志は無い」という話が出てくる。え、自分で意思決定してないってこと?

現代では「自分の意思ですべて決めなさい」「自己責任で」とは本当によく言われる。病気になったのも、精神的に弱いのも、ぜんぶあなた 自分の責任でしょ。自分の意志で選んだことなんだから、と。結構まぁ意思を尊重・自由にみえるものの、一方で責任の所在をその個人に集約しがちである。

だけれど、人の意思なんて環境や状況によって本当にことなる。危ういものなのだということをここでは知っておかなくてはいけない。様々な要因、環境、文脈があって、やむない意思決定だってあるし、自分が自由意志で決定していると思っていることだって外的要因によって刺激され、思い込まされてることだって多々ある。それを自覚しているか、無自覚的に判断しているかによって、他社に対しての反応の質は異なるのだ。と思った。

自分だってそのような状況に置かれてしまえば、同じようなことになっていたかもしれないと想像してみる。自分はそうはならないと、楽観的におもってしまうことは思考停止ですごく危険だ。

だからこそ、コントロールが難しい外的要因は変数であり、自分の意思決定にかなり影響を及ぼしているってことを知っていることが大事になる。

自分が今いる場所で、どのように住み、どのように生きていくか?

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答えは、もともと自分たちの中に備わっている。それをもって、楽しみを知る・その楽しみの領域を広げていく。これが賢者なのだとしたら、自分はどのように賢者になっていきたいだろう?

一つのヒントは、「体験する」「自分の心への感度を研ぎ澄ます」ことなんだろうと思う

選り好みせず、食わず嫌いをせず、やってみること。そこで思わぬコナトゥスの発見があったり、逆に他者に共感できたり尊重できたりと、そうゆう幅が広がってくるんだろうなと思う。この体験の質と量。

そのためには、今自分には お金もだけれど時間や自由に移動できる交通手段などが必要だと思う。自分を動かしにくくしている要因としては生活や思考の半分以上が仕事中心で占められている。

自分の本質という意味で、これでよかったんだっけ?意思決定は外的要因によってもかなり変数が変わる。であれば、生活環境や仕事環境、人づきあいにかんしてもかなり影響される。このコロナの一見もあり、改めて見直すたいみんぐなのかもしれない。

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