せめてもの社会への反逆

涼しい日々が続く。

お気に入りのロンTを着れる嬉しさと、21年目の夏が終わってしまう曖昧な感情の板挟みだ。


最近、気づいたことがある。

私たちは気づかぬうちに大人に成り下がってしまってはいないか。


融通の効かない大人、綺麗事ばかり言う大人、感情の機微に寄り添えない大人。

勿論、大人は人生の先輩であり、学ぶことも多くある。


それでも、

歳を重ねるに連れて、経験を重ねるに連れて、

大人になるということは、何か大切な感情を失うことである。

そんな気がしてならない。



サラリーマンや学生の流れを逆走しながら帰路に着く非日常の朝も

アルコールに溺れて抱いた情けなさに萎える度に増えるライターも

今は縁を切った人と些細な会話の中にしたあの約束を思い出す罪悪感も

深夜の公園に集合した地元の仲間たちとの高台からの風景も



これらでさえこの3年間抱えた感傷のひとつに過ぎない。

ここに書けないような、いや2人だけの心に閉じ込めていたくて書きたくないものもある。

この感傷に一喜一憂していたかった。酸いも甘いも味わっていたかった。


それでも、社会に出たらこんな感傷に浸ることはできない。いや、浸る自信が無い。



嫌でも私たちは社会に出ていく。

幸せを求め、社会のレールを走って行く。


初年度から地方に行く仲間もいるだろう。

或いは、運命の人と出会って、二度と2人で会えない女の子もいるのかもしれない。


多くの感傷は20をすぎた頃から、時間をかけて癒えていくのだろうか。

青春映画で何故か胸が苦しくなるのはその所為だろうか。


そして、大切にしていたかった感傷もいつの日にか繋ぎ止められなくなるのかもしれない。

或いは、私自身がそう思えなくなってしまうのかもしれない。



だから、大人になりたくない。

大人になることが怖くて仕方がない。



私の周りの人たちも同じことを思っているのだろうか。

私たちの創ってきた青春は長い人生の幻想の一部に呑み込まれてしまうのだろうか。

お年寄りになっても、私が今生き抜いているこの時代を思い出すことはできるのだろうか。



いや、絶対に守り抜きたい。

理不尽な社会や時間の流れに抵抗していたい。



それでも、2年前の記憶の一部は既に薄れていた。

大切な感情は忘れていないはずなのに、忘れたくないはずなのに、あの言葉、あの表情。

カメラロールを精一杯スクロールしなければ思い出すことができない部分もある。

大人になることに太刀打ちすることはできないのかもしれない。


自分の言動不一致に情けなくなる。

神に設計されたシステムには反旗を翻すこともできない。

それとも、心の奥底では感傷なんてどうでもいいと思っているのだろうか。



そんなことは無いと信じたい。

でも、信じる自信はない。



「大人になることは難しい」なんてよく耳にする。

大人になることは簡単だ。

大人にならないことが最も難しいのだ。

記憶の永久保存フォルダなんか作って、コピーアンドペーストなんかできたらどんなに幸せだろうか。



それとも、この感傷を忘れることが幸福になることの代償であるのだろうか。

「幸福」という概念があるからこそ、「不幸」という概念が生まれる。

「幸福」も「不幸」がなければ、誰しもが経験しているただの日常なのだから。

不幸を経験しなければ、幸福はありえない。

一喜一憂することも、酸いも甘いも味わうことも同じである。



もしそうならば、喜んで差し出そう。


なんて到底言えるはずがない。




小学生の頃、よく長いエスカレーターを逆走して遊んでいた。

今となっては体力的にも道徳的にもそんなことできるはずがないだろう。


大人になることから目を背け逆走してみる。

それでも社会のモラルに呑まれ、押し戻されてしまう。



それならば、いっそ思い出が澄んだ水色に染まっているうちに。

壊れないように、真空やら冷凍にして天に持ち帰るのもいいのかもしれない。


そんなことを考えているうちに、今日も朝の日差しがカーテンの隙間から覗いてくる。




最後に私の好きなバンドの歌詞の一節を残しておく。


重ねた過去をまだなぞっているよ

みんないなくてもまた笑ってみるよ

ただ守れないでごめんね 

弱いばかりでさ

どうかずっと日々を愛でてよ

僕を見ててよ







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