現実って奇跡の連続だね!

【自分の人生の中で出会う現実】は、『自分の意思が叶うことも』あれば、『全く予期しないことも』ある。だけど、自分の希望通りだろうが、そうじゃなかろうが、【全部が自分の人生の1部】になる。最近の私は、何事も、そんな風に自分で解釈するようになった。
前回の投稿にあった【私の結婚】に関しても全く同じ。また、【私の過去】に関しても『今となっては』って話だけど【全部私の人生の1部】だと『普段から思って』生きている。過去も現在も、言ってしまえば『たまたま自分の身に起きた・.起きている』だけの話だと思っている。
そもそも【自分の生まれ育った環境】なんてものは、自分の意思なんて関係なかった。【たまたま、その環境】だっただけだと私は思う。そして、逆を言えば、親だって同じ。【子供を望んだってこと】に関しては、本人達の意思はあったのだろうと思う。 しかし、【どんな子供であっても、子供は子供】な訳だ。『たまたま母が私を妊娠』して、『たまたま私は女』で、『たまたま私はその日に生まれ』て、全部の【たまたま】が重なった結果だ。もちろん、『母が私を産むため』や『その後は育てるため』に、どれだけの人の【努力】や【愛情】があったのか。そんなことは、私が簡単に言えるはずがないよ。ただ、その結果、【私が今生きてるってことが現実】だ。

私が言いたいことは、要は【たまたま】の連続と、【実際に産む母】や【私の誕生を望む人達】の【努力の結果、私が生まれた】ってこと。そもそも、【実際に望んで行動すること】が、『大事な1歩なのかな?』って話。『そうでなければ、【全てが想像の世界】のままだよね』って思う。
また、【たまたま】って言葉を、もう少しよく聞く言葉に変換出来ると私は思った。それが【奇跡】だよねってこと。
【奇跡的】に私は生まれ、【奇跡的】に私は今を生きている。【私が望んで生まれた訳でもない】のに、【私の人生は始まって29年目】だ。【私が望んで生まれた訳でもない】とか【私が望む程、夢見る人生じゃない】とかで、【自らの命を粗末に扱う・思う】なんてことも実際あったよ。だけど、【この世に生まれてしまった事実】は、【既にどうにも変えられない現実】だって私は思った。だったらもう、【奇跡的】に始まった【私の人生】を、『これからも【私】が生きていくしかないじゃん?』って感じ。それに、1度産まれたのだから、死ぬまでずっと【私の人生】なんだもん。今は正に、『子供時代を経て、大人の階段を昇っている真っ只中』だ。

そして、【奇跡】に関しても【良いも悪いもない】と私は思う。【奇跡的に〇〇になった】ってことはあっても【奇跡的に良かった・悪かった】は、あまり聞かない気がする。【誰だって奇跡的な人生を生きている】訳だ。めちゃくちゃ尊いことだと本当に思う。そんな【自分の人生の中で起こる奇跡の連続】を、いちいち【良い・悪い】なんて考える時点で、きっと『疲れてくるし、そんなのもったいない!』って思う。
そして、【他人の人生】に対して思ったり言ったりするなんて、『めちゃくちゃ失礼な話』だと私は思う。私は、【友達の結婚】を『祝福する』ことはあっても『良かったね』とは思わない。『あなたが幸せなのが良かったわ』って思うことはあるけど、それだけだ。何故なら【あなたの奇跡的な人生の1部】なのだから。

タイムリーに私の結婚が重なっているだけであって、結婚以外にも該当すると思う。どんなに小さなことでも【私の人生の1部】な訳で、その積み重ねが【私の人生】を作っていく。【奇跡の連続が、今・現実】なんだって思えば、【ネガティブな感情の時間】が、そもそも『もったいないんだ!』って気持ち。それが、ほんの少しだけ分かったかもしれない。

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