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貴婦人のドレッサーに憧れて

美しいものは、手に入らない。むしろ、手に入らないほど美しいものが好きだ。

何かを犠牲にすれば手に入るかもしれない美しいものをデパートで眺めるのも楽しいが、哀しいかな、主婦というものは、何もかもを食費に換算して考えてしまう。
感情より勘定が優先される。

それならば、美術館や名建築を訪ねるほうがいい。
案外そういうものは、誰にでも開かれていて、見ることや知ることができる。そうして心の収蔵庫に収めて時々取り出し、現実の暮らしを照らす。

現在「私の心の美術館」で公開中なのは、美しいドレッサー。ため息の出るようなドレッサーを、昨年2つほど目にしたのだ。

ひとつは、旧前田侯爵家駒場本邸に。
復元された侯爵夫妻の寝室の奥に、それはあった(タイトル写真)。

毛織物のじゅうたんの上に、軽やかに伸びる猫足。
ロンドンであつらえたという艶やかな木製ドレッサー。自分の顔を鏡に映すと、ああ現実に戻ってしまいそう。

それにしても、なんて美しい居室。
各部屋に暖炉を設え、百人以上の使用人が働きまわったという侯爵家の主だけに。
金銀の連続模様の壁紙、高い天井、美しいドレープを描く絹のカーテン。この上なくゴージャスなのに、品の良さも感じる。建築意匠と室内装飾が、どの位置から眺めても完璧に調和していた。

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もうひとつは、本の中で見た、高峰秀子の鏡台。

言わずと知れた大女優。
翻弄され漂いながら薄暗い場所で咲くような役柄の多い、成瀬巳喜男作品。
自分の人生にグッと引き寄せて喜怒哀楽に忙しくなってしまう、木下恵介作品。
「おしゃれ」「インテリア」をキーワードにすれば、小津安二郎の「宗方姉妹(きょうだい)」のコケティッシュな妹役、白黒に映えるファッションが好き。

その時代の日本映画が好きで観ていくうち、いつしか高峰秀子の大ファンになった。

いつでも背筋が伸び、美しく装い、年齢を重ねて派手になることもなく、一貫して上質で上品。和装もこだわりを持って着こなし、料理上手で、暮らし上手。

自筆のエッセイを通して、スターの生き方そのものへ、憧れを募らせた。
エッセイの名手としても知られるが、子役時代からずっと売れっ子で学校へ行く暇がなく、読み書きは本をたくさん読んで独学で習得した、というのも格好いい。

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昨年「おしゃれの流儀」なる本が刊行され、コロナ下で潤いを求めて買いに走った。
そして目にした彼女のドレッサーは、ああ、高峰秀子そのもの! だった。
身の回りの整理整頓にも一過言あった大女優のドレッサーは、左右対称に整って、無駄なものなど一切オモテに出ていない、凛とした姿なのだ。

それで、私のドレッサーは、というと。まず、ドレッサーを持っていない。
化粧はどこでするのかというと、春と秋は洗面所で、夏と冬は我が家で唯一エアコンのあるリビングの鏡で。「土台一式」(下地・ファンデ)と「色もの一式」(アイシャドウ・チーク類)を無造作に詰め込んだ2つのキャニスターは、片手で運べる。ノマドワークならぬノマドメイクを、私は気に入っている。

完全な姿を呈してはいないが、ドレッサーらしき自分だけのコーナーがある。温度調整が効かず、本棚に囲まれ、物置めいた風情のある小さな部屋の片隅に。

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壁に吊した小さな鏡の下に、40センチ四方の世界が広がっている。ジュエリーボックスは、空き缶。東京會舘のクッキー缶ふたつに、中の仕切りも活かし(個包装だったので清潔)、イヤリングやネックレスを収納する。

アクセサリーは、蚤の市で買ったフランスのヴィンテージだったり、お母さん仲間のお手製だったり(器用な人が多く、金工作家さんもいらっしゃる)。
小さく可愛らしいものたちを収めるパレットは、学祭で潜入した女子美の購買部で。身に着けた後は手入れできるよう、ブルガリア土産の小箱には布が入っている。

イタリア・シエナの古書店で買ったフランスのファッション誌の1ページは、神保町で選んだ額との調和も良い。人から見ると不当に高価な“紙切れ”に、私の思いは溢れている。ここにある、すべてのものにも。

はたして、この下はというと、無印良品のカラーボックスに小学生の息子の鉄道関連書籍が詰まっていて、また別の果てしない世界が広がっているのだ。

カラーボックスの隣、背の高い本棚の上も、飛び地的にドレッサーの続きだ。
自作の人形や、妹が編んでくれたタティングレースなど、目に入るだけで口角の上がるものたちの奥にある、本。それらも、ドレッサーの一部。
鏡に映る自分の顔は、いつも明るいわけではない。でも、どんな時でも手に取って10分も読めば、気持ちが前向きになる本たちを、ここにそろえている。

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どんなに小さな場所にも、自分の世界は創造できる。
転勤族の家に生まれ、転勤族と結婚した私が、ひそかに磨いた技なのかもしれない。

―ああ、マホガニーの美しい鏡台よ
私はとっくに知っているのだ
お前が私のもとへ来る日など
永遠に訪れないということを
だが、艶やかなお前の肌を思うとき、
私の心には天使のラッパが響くのだー
(ジャック・プレヴェール風 ※知ったかぶりです)

きっと何十年後も変わらず、私はジュエリーボックス代わりの空き缶を開ける。
手には皺が刻まれ、缶の蓋は錆びついて。

その頃には、古い日記を読み返すのもデジタルで、今日のバカげた詩を読んで、笑い転げているかもしれない。それから「久しぶりに侯爵夫人のドレッサーを観に行こうかしら」と、重い腰を上げるかもしれない。
そう、それで良い。

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