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「+1の挨拶」ができる大人になるということ

得意の「忍者タートル」写真。離島留学の前年の夏に二人で下見に行ったときのもの。小2の夏だからなんか幼く感じる娘…

私たちが1年数か月暮らした家があるのは娘の指先。200世帯弱しかない(しかもお年寄り一人世帯が多い)「誰もがお互いを知る」集落。この日は曇りで綺麗な海だとは写真からは判断できないけど、それはそれは一目で心奪われる見事な奄美ブルーの海に面した場所。

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(2020年02月10日ブログより)

タイトル:猪と今晩は…

今夜は我々の瀬戸内移住を「猪に」お祝いしてもらいました…
街灯はもちろんない真っ暗な中、車で家に帰る途中に青く光る眼。「犬?猫?」と思ってゆっくり運転して横切ったら…

猪だぁーーー!

大きさから言えば、瓜坊なのか?よくわかりません…すみません。都会人ぶっているわけではないけど、仙台では猪とは遭遇しない!

ですが主人の出身、高松の郊外には猪が出ます。初めて彼の実家に挨拶に行ったときに、お義母さんが「キジとサルと猪がこの前でたわ~」というので、「犬も飼っているし、桃太郎ですか?」と突っ込んだら、普通過ぎるのかスルーされました!!!桃太郎に猪はいらないけど、キジとサルって…

というわけで、下の子を抱っこして家に逃げ込み、安全を確保(大げさなのかな?)
そしてこの動揺と感動を親しい友人にLINEしまくり。
東京だと芸能人とすれ違うと「今〇〇とすれ違ったよー」とか、「うちの子の学校にXXの子がいるよー」なんてミーハーな世間話はしますが、
猪一つで同じくらい盛り上がる盛り上がる笑。
どちらも同じぐらいスゴイ!所変われば…状態です。

こちらの集落は知らない人でも挨拶をしますよね。日本全国の田舎はきっと同じようなものだと思います。
それはきっと「私は不審者ではありませんよ」という意味なのですよね。
欧米人が握手する発想と一緒。「私は武器を持っていません」という意味で右手を差し出していたのが発祥だとか。
彼らは握手するような仲ではない場合も、例えばエレベータで一緒になったりする場合でも、目線を合わせて"Hi!"と言います。
これも同じで「私は怪しい者ではありませんよ」という意味が含まれています。

一方東京は逆です。「私はあなたに興味はありません。ですので不審者ではありません」というばかりに目線をそらします。
そして住宅地である私の実家は昨今はその中間ぐらい。
知り合いかどうか確認し、知り合いなら挨拶、知らない人なら目線をそらす感じ。なんか中途半端だな…といつも思います。

挨拶。深いですね。文化、習慣、慣例を表す大事な大事な言葉です。
仙台弁なら夜誰かに会えば「おばんです~」。もっとローカルになると「おばんでがす~」

今夜動揺せず、猪に「おばんです~」と返すべきだったかな…
もちろん安全な車の中からですけど!!!

早く色々なことに慣れて、仕事の準備をしたいところです…

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奄美に引っ越して初めて猪を見た晩のブログです。懐かしいなぁ~。あの後何度も見ましたが、動揺するよりもその身のこなし(車の避け方)に感心するぐらいまで私もタフになりました。地元の中学生の女の子も「猪食べたかったら言って~。ウチのおとん、すぐ捕ってきてくれるからぁ~」と。東京だったら「美味しいシュークリームもらったんだけど、いる?」的な感じ笑。

私と息子、最近面白い挨拶をしています。息子を送迎しに来ている横浜で。

相手はもちろん猪ではありません。見ず知らずの夫婦?カップル?です。もう1か月弱ぐらいの間に数回ただ「挨拶」だけしています。

きっかけは息子。1か月程前の朝から日差しが強い日。駅から幼稚園に向かって歩きながら「今日はどこの森に散歩に行くのかね~」と手を引いていると、その手が段々重くなっていく…足取りも同時に遅くなり…

「え?なんか幼稚園に行きたくない理由でもあるのかな」と心配になり息子の顔を覗き込むと…

口にしていたはずのマスクを目に移動させて、サングラスにしていた!!!

「あっはっはっはっはーーーーーーーーー!何やってんのーーーーーーーー!」と思わず立ち止まって爆笑の私。息子「だって眩しいんだもん…」

そりゃあ通りで繋いでいる手も重くなるし、足取りも遅くなるよ。見えない状態で私に引っ張ってもらっているだけだから。

そしてこの一連の様子を全部この「見ず知らずの二人」に見られていた!しかも私がサングラス息子に気づくだいぶ前から二人は我々の反対側から歩いてきていたので、「なんだ、あのチビっ子。マスクをサングラスにしているぞ…」と思っていたはず。

そして見られていたことに気づいた私。恥ずかしいなぁ~と照れ笑いしながらその二人とすれ違おうとすると「おはようございます!」と言われた。思わず耳を疑った。ええ?知り合いじゃないよね?こんな都会で知らない人に挨拶?と。

そして私も「あ、おはようございます!」と急いで返す。するとその二人の男性の方が、息子に親指を立てて「ナイス、サイコー!」と言ってくれたのだ。

息子もニヤッと笑って「ねえねえ、サイコー!だって」と言って調子に乗り、私が口に戻したマスクをわざわざまたサングラスにする…

そんなやり取りをしてからこの1か月弱。その二人と何度か駅ですれ違う。そしてお互い照れ笑いをしながら「おはようございます~」と言う。私はこれを「素敵な関係」だと思う。奄美やアメリカで、たとえ知らない人にでも「こんにちは~!」と言っていたように。

子どもの挨拶事情

娘が保育園から幼稚園に行くようになって一番驚いたのは、幼稚園は「子どもが挨拶をしない」ことだった。語弊があるかもしれないが、「おはようございます!」と言うのは送迎しあう大人同士で、手を引かれている子どもは我関せずという場合が多い。この現象は私の周りだけだろうか?幼稚園通いは3つ目になるが、どこもその傾向は強くでている気がする。

一方保育園。親同士の送迎時間にズレがあるため最初に親は我が子の友だちと直接会話することになる。仲良くなってしまうことも。そしてタイミングが合うと初めてその子の親と接するし、園内では誰にでも軽く社交辞令で挨拶するか、お友だちだと「〇〇ちゃんのママ~!」と駆け寄ってくるため、幼稚園の送迎時のような「肝心のお友だち本人と挨拶していないな…」的なモヤモヤ感がなかった。ちなみに保育園も3つ経験済み。

そして小学校に入学すると挨拶が「できる子」と「できない子」の差は歴然としてきて、親が「あの子良い子だね~」と判断する材料の一つになるような気がする。私が驚いたのは、小1の時にクラスの半分ぐらいの親子でクリスマス会を開催し、その幹事をやった時のこと。その翌週にちょうど学校で何人か娘の仲間たちに遭遇。そこで一人の男の子が「〇〇のママ、この前はクリスマス会を開いてくれてありがとう!」とお礼を言ってくれたのだ。これにはびっくり。結局その男の子は今や娘の大親友だし、そのママとも私は大の仲良し。つまりそのママが「クリスマス会を開いてくれたのは〇〇のママだからね。お礼を言うんだよ」と教育していた賜物な訳で、私と価値観が合うのは当然ということになる。

そしてなんとあの「死ね死ね団」の団長も、実は挨拶だけはしっかりできる男子。「よ、〇〇~!元気かよ~」と私を呼び捨てにして近寄ってくるくせに(私を好きな証拠らしい笑)、私と一緒にいる彼の知らないママには「こんにちは。〇〇です!」と自己紹介までできる始末。「死ね死ね」すぐに言うくせに、これだからこの団長は憎めない!可愛くてつい声をかけてしまう。そしてその子も何だかんだ我が娘の相棒であり、その「死ね死ね」発言に現在最大限に悩んでいる彼のママも私の大の仲良しだ。

たかが挨拶。されど挨拶。子どもにどういう教育をしているのかが垣間見れる基準となると私は思っている。(だから早く団長の「死ね死ね」コールブームも終焉を迎えて欲しい…)

大人の挨拶事情

「いい大人で挨拶もできない人っているの?」と思うだろう。さすがによっぽどの高飛車か性悪人間、ご近所トラブルを起こすような問題老人…のような人たちではない限り、我々社会で普通に暮らすいい大人なら、挨拶ぐらいは普通にできる…

「こんにちは」ぐらいなら。そりゃあ誰でもできる。誰でも。だってタダだし、簡単だし、習慣だし、朝飯前、無意識でもできること。

だが私がその人が「挨拶ができる人かどうか」の基準にしているのは「+1の挨拶」だ。普通の挨拶以外に何かを足せるか…それが「+1」

前回会った時にお世話になった人に「この前はお世話になりました」(たとえそれが本人じゃなくて我が子や配偶者であっても)、

お土産をもらった後に会って「この前いただいた〇〇、すごく美味しかったよ~。ありがとう!」とか、

何か良いことがあったことを小耳に挟んでいたときに「〇〇君、~で優勝したんだってね、すごいね!おめでとう!」とか、

遊びにいったお家で会ったご主人が「こんにちは~。ゆっくりしていってくださいね~」と言ってくれるとか…

別に「媚びる」という意味でもない。ちょっとした「お礼」「気遣い」を普通の挨拶に加えるという意味だ。それだけで相手は「この人はできる人だ、いい人だ」と感じてくれる。ちょっとした一言が相手も自分も気持ちよくさせる。

これは私がアメリカで学んだ、特に意味もなく「I like your tie」や「Love your dress today!」と言った肯定感や受容表現になる「挨拶」だ。私はあなたに敬意を持っていますよ、文化や人種は違うかもしれないけど、お互いに受け入れましょうね~という、verbal communication。

どんなにいい人でも、立派な人でも、頭の良い人でも、これができるかできないかで印象が違うと思う。逆にできなくともそれ以上に「何か素晴らしいもの」を持っているなら、それはそれで許されるだろう。普通の挨拶でさえできないと不快に思う人もいるだろうが「一芸」を優先させて構わないとは思う。

ただ「私は」普通の人間だし、そんな「一芸」でまともな挨拶ができなくても許してもらえそうな人間ではないから、普通の挨拶、そして大切な人には「+1の挨拶」を続けていくと思う。挨拶もタダだし、お礼や気遣いを言うのもタダ。それで評価のリターンは大きい笑。

息子…サングラス男。今朝例の現場を見られてから挨拶をするようになった二人とすれ違った時、なぜ私が「おはようございます」と言ったのかわからない顔をしていた。覚えていない模様。「この前マスクでサングラスにしていたらかっこいい!って言われたでしょ?」と言うと、「ああ…」と軽く返された。

大丈夫かな…この子はきちんと挨拶ができる大人になれるだろうか。それともそれができなくとも「あの人なら才能あるから(変人でも)仕方がないよ」と許される人種になるのか…。

なんか不安。

KYHR/SLA





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