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Quantity vs. Quality:「いいね!」や「♡」の数を求め続けること

話題の本「スマホ脳」を(間違えてデジタル版で購入したので)iPad miniで読んで中毒なう!になっている、本末転倒女です。

米国フェイスブック社とその傘下のインスタグラムは、自身やフォローする人のページ上の投稿に対する「いいね」の数を各ユーザーが非表示にできるようにする機能を設けたというニュースは、先月世界中を駆け巡ったばかり。ユーザーの「いいね!ストレス」に対する考慮。

一方、昨年2020年には新型コロナウィルスのパンデミック宣言も致命傷的に遅かったヤラカシ世界保健機関(WHO)は、正しい情報と不確かな情報が大量に混ざり合い、信頼できる情報源や知識が必要な時に見つけにくくなってしまう状態を指して「インフォデミック」とする造語を発表。

「私たちはウィルスの感染拡大(パンデミック)に付随して、インフォデミックにも襲われている」「我々はウイルスと闘っているだけではない。ミスインフォメーションを流布し、感染症対策を妨げるデマや陰謀論者とも闘っているのです」

2016年の米国大統領選挙で話題となった「フェイクニュース」然り、関東大震災直後の混乱のなか、「朝鮮人が火をつけて暴動を起こそうとしている」「井戸に毒を投げ入れた」という「デマ」然り、その時代その時代の虚偽情報は常に人々を悩ませてきた訳だが、現代社会ではスマホの普及によってその拡散のスピード領域、そして影響力までもが「測定不能」に陥ることが問題なのだろう。

このままIT企業にハッキングされた私たちの脳は、物事の正確さも判断できなくなり、一日中スマホをいじり続けて人生の数年分を搾取され、睡眠時間とその質を無下にし、「いいね!」や「♡」の数で「自己肯定感」を失い、SNS企業が作り上げてしまった「短絡的なドーパミンを原動力にした、永遠に続くフィードバックのループ」(「スマホ脳」より)に陥って、そこから抜け出せないのか…

「いいね!」機能はいつから…

知らなかった!いや、気が付かなかったことなのだが、Facebook社が「いいね!」機能を導入したのは2009年らしい!私がFacebookを始めたのは2007年で、まだ日本語にもなっていなかった。海外にいる友人たちが登録しろ~、登録しろ~とうるさかったのでとりあえず始めてみた。たまに今のTwitter的につぶやくようなコメントをしていただけだったので、「いいね!」機能はあったかなかったかなんて気にも留めていなかった。なので私にとては「いつの間にか付いていた機能」であり、その数は「あまり」気にならない。「全く」と言うと嘘になってしまうから本当のことを言うと、ただの「いいね!」だけではなく「超いいね!」や「うける!」が加わった頃から気になり始めた。数ではなくて、性格上「ウケタかどうか」の判断材料として。笑ってもらいたい投稿が多いから。いや、それしかないか。

前にnoteにも書いたが、普段自分はSNSの使い分けをしていて、Facebookは「会えない友だち」に限定している。逆に頻繁に会えて、コミュニケーションを取る必要がある人はLINEにしていて、その他の事務的・仕事連絡関係は普通のメールにしている。TwitterもInstagramも芸能ネタ?っぽいのを閲覧する用に何かのきっかけで「登録してしまった」だけなので、積極的に使ったことはない。

とにかく、そんなテキトーな使い方、自分に都合の良い「文通・回覧板・個人的ニュースレター」のような使い方しかしていない私には、いいね!も♡もLINEのストーリーにつく顔マークも、ついたら「嬉しいし、有難い」程度で、数を気にしたことはなかった。

“Quantity vs. Quality”問題

奄美の田舎町。8000人ほどの人口のその町で1年ちょっと暮らした私たち母子だが、そんな田舎町でも(だからこそ)オモシロ事件がたくさんあった。とにかく物理的に狭い町狭いコミュニティ狭い人間関係(←これは都会でも一緒か)。幼稚園を通じて知り合ったママを、友だちになった外国人に紹介するときに「…ママ友?の〇〇ちゃんです」と言ったら、「あのね、島ってね、ママ友っていないんですよ!全員親戚か、同窓(同じ学校かどうかではなく同じ年に生まれた人を全員指す!)か、先輩後輩ですから~笑!」と言われた。そう、彼女とは確かに息子の幼稚園を通じて知り合ったけど、蓋を開けたら彼女のおばさんの家は私たちが住んでいた家の向かい、しかも私に駐車場を無料で貸してくれていた人で、娘の学校の放課後教室の見守り先生だった。確かに!どこで誰に会っても、みんな知り合いか繋がりある人だったわ!

そんな町にも、町にだからこそSNSを駆使して情報を発信し、その情報をあーだこーだ言いながら楽しむ人たちがいるので、いわゆる「小さな町のインフルエンサー」が発生する。特に飲食店の経営者、何かのプロジェクトにかかわって動いている人たちはFacebookからInstagram、はたまたLINEのストーリーを駆使して情報や自分の意見を本名で発信するから、ある意味尊敬してしまう。私生活バレバレ、考えもバレバレで赤裸々になってしまうリスクを取ってまで、町を想い、人に何かを伝えようとする姿勢…私にはできないから。

そのうちの二人の女性たち。一人は飲食店経営、一人はコミュニティづくり活動をしていたわけだが、一方がもう一方のSNSの使い方をこのように否定したことがある。

「彼女は”どれだけの数” いいね!が付いたかしか見ないタイプです。私は”誰が” いいね!を押してくれたかを見るタイプなんです!」

うーん。難しい。私はあの時なんて答えるべきだったのか。「そうなんだ…」としか言わなかった気がする。それってつまり「何人の人が反応してくれたのか(量=Quantity)」「どんな人間が反応してくれたのか(質=Quality)」を競わせているように思えて、それは実は一歩間違えればただの「驕り」になってしまわないだろうか。

私のSNSに「いいね!」をくれた「量」が多いので、私はあなたより凄いんです!と言いたいのか、

私のSNSに「いいね!」をくれた人は、私のことをよく見てくれている人間的にいい人たちなので、ただ闇雲に押す人より「質」で判断しているんです!と言いたいのか。

量 Quantity

確かに「量」…つまり数も大事かもしれない。「フォロアー数何万人」「登録者数〇〇万人」「閲覧数〇〇回」「PV数~億回越え」なんていう判断基準はもはや日常茶飯事で聞くことだし、それがどうした?とは言えない。へぇ~すごいね~と純粋に思う(それで稼げて羨ましい笑笑)。でも自分がFacebookを見ていて、いくら大切に思っている友だちの投稿でも、特に言いたいことがなければ軽い気持ちで「いいね!」を押すし、もう一回観たくなるかもしれないなと思ったYouTubeはチャンネル登録ボタンぐらい軽い気持ちで押してしまう。だからその「量」の本質は「みんなそんな程度でしょう」と思っている部分もある。

質 Quality

一時期話題となった本。「フランス人は10着しか服を持たない」(ジェニファー・L・スコット)ではないが、近年はこちらの「質こそ大事」な風潮になってきているのではないだろうか。フランス人の友だちに聞いたら「うーん、そんなに少なくはないわね」とは言われたが笑。特に近年のSDGs「持続可能な社会目標」の達成のためには、「量」ではなくて「質」を大事にして解決に近づける問題が多々ある。ということはやっぱり「質」?

と傾きかけた意見だったが、ある会社のMarti SanchezというCEOが書いた「量か質かの議論は一旦終わらせよう」というブログを見つけた。これがまた面白い。

What you think is better might not align with what your audience wants.あなたが良いと思っていることが絶対的に他の人が欲しているものと一致するとは限らない。とし、

You might spend hours researching statistics and creating graphs just to find that all your readers want to know is your opinion.
You might invest hours on creating the best animations for your video blog just to find that your viewers don’t even like them.
You might record your podcast dozens of times to get it “perfect” just to find that your audience doesn’t care when you stutter.

簡単に言えば、時間をかけて良いものを作ったつもりでも、それを相手に必ずしも評価されるとは限らないから、この時代量の方が100%質より重要だ!と言っている。そして「質」はあくまで主観的でしかないから、量が勝つために追加すべき重要な要素は「スピード」だとも続けている。

私なりのnoteとの付き合い方

この「量か質か問題」は終わらせることができるのか…私の立ち位置からでは分からない。でもSNSの「いいね!」や「♡」問題に関して言えば、そんな単純な問題でもない。その機能で病む人がいるのなら、その機能に日々支配される人間の弱さがあるのなら、脆弱な脳と心を守るためには「非表示」…もっと言えば「廃止」にしてもいいのではないかとさえ思えてくる。※noteの運営会社の人、ごめんなさい!noteには♡がありますよね…私、ここから追放されちゃうのでしょうか…

noteを始めて最初の数日。正直に告白すると「♡」が付くことが嬉しかった。なぜなら一生懸命長文を書いたのだから、小学校の作文じゃないけど「大変よくできました!」みたいだったから。でも数日経つと、その♡が付くたびに送られてくるメール通知が煩わしくなり設定を変えた。もっと日にちが過ぎていくと、通知は来なくても、ちゃんと読者数が増えているのか、♡も増えているのかを「自ら身にダッシュボードをチェックする」自分がいた。そして…なんだか情けなくなった。ああ、やっぱり私の脳も「スマホ脳」。心も病み始めたのか…と。

そして気が付いた。ダッシュボードをよく見て見ると、読者数が多い記事が決して♡数をゲットしているわけではないことを。♡数は多くとも、なかなか読んでもらえず、安定した低飛行を続ける記事があることにも。(なぜか娘ネタが読者数が多くて、息子ネタは人気がない…ごめん、息子よ!母のライティングスキルが!)

つまり、量か質か問題は時間をかけて一生懸命長文を書くnoteでも解決していない。他人様の記事を見ても、あくまで読んでいる自分の好みであって、絶対的に「面白い!」と思うものが♡数が多いとは必ずしも限らないし(いや、だいたい面白いけど笑)、♡が少なくとも「私が」読むと面白い内容の記事はある。やっぱりここでも「主観」でしかないから、量と質は矛盾するのだ。

私たちは所詮主観で生きている。だからこそ自分が面白いと思うものを大事にしたいし、それを自信をもって、信じて貫いていきたい。ただそれでも弱い部分があるから「いいね!」で人の評価を気にするし、それを支えにもしたいのだ。

♡の数は気にしないで行こう!見ず知らずの人たちにこちらの想いをインプットしてもらえるだけ有難いと思って。問題は私のアウトプットの質にしよう!「質じゃない、スピードと数だ!」と言われても、やはり私が出すものは私の主観なわけだから、質にはこだわらなければ…

※世の中大抵の人は「褒められると伸びる子ちゃん」です。もれなく私もそのタイプ…そこだけはよろしくお願いします「♡」

調子いいなぁ~

KYHR/SLA

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