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【ショートショート】 一つのみかん〜あちら側の話〜

 その日、わしは膝が痛かった。それでも数日前から体調を崩して寝込んでいる婆さんが、昨日の夜から「みかんが食べたい。」と言い続けていたし、実際問題として、買い物には出ないといけないくらい、冷蔵庫には何もなかったので、仕方がなく出かけることにしたのだった。

 年を取るということは、残酷なことだ。かつて何も「意識することなくできていたこと」が、一つ、また一つと「意識しないとできないこと」になっていく。茶の間で深呼吸をして、買わねばならないものを確認し、メモを取ることにした。ゆっくり膝を摩りながら立ち上がり、洗面所、お手洗い、キッチン…とゆっくり見て回って、必要なものを書き出す。何をするにも、自分の挙動がゆっくりになっていると、自覚したのはいつのことだっただろうか。
 緩慢な動きながらも、できる限り急いで支度をし、忘れ物がないか度々確認をして、婆さんに声をかけ家を出た。通勤通学の人たちのひと波が過ぎ去った後の、少し落ち着いた街をゆく。わしがポケットに入れたメモには、何度も買い物に出かける手間を惜しんで、想定していたよりも多くのものが書き連ねられていた。果たして、こんなに買って持ち帰れるだろうか…。

 生活用品で必要なものを買って、食料品を買いに行こうと動きかけたとき、一人の学生さんに声をかけられた。
 「すみません。おじいさん、少しだけお時間いただけませんか。」
 どこの学校かはわからないが、制服を着た利発そうな女子高校生だった。何かの勧誘のようには見えず、思わず立ち止まった。こんな年寄りに何の用事だろうかと目で応じる。

 「私の祖父が今日誕生日なんです。それで、誕生会を家族でしようと計画していて。何か贈り物をしたくて買いに来たんですけど、何を贈ればいいのか全然わからなくて…。」
 照れくさいのか、所在なさげに手元をもぞもぞ動かしながら、彼女はそう言った。
 「やあ、それは素敵ですね。おじいさんは喜ばれることでしょう。」
 きょうび珍しい、素晴らしい家族だなと思った。幸福な老人だ、羨ましいくらいだ。
 「お祝いしたい気持ちはあるんだけど、いらないものをあげてもなあって思って…。」
 困ったように眉毛をハの字にして真剣に話す彼女の話に、うんうんと相槌を打ちながら耳を傾ける。要約すると、何週間も前から悩んでいたが決めきれず、ついに当日になってしまい、掃除当番を友達に代わってもらって急いで買い物にきたのだという。

 「定期テストが今日で終わって、全力でお祝いできるなと思ったんだけど、あげるものをやっぱり決めきれなくて。おじいさんなら、何をもらったら嬉しいですか?」
 「そんなの、」
 わしは思わず食い気味に答えてしまう。
 「そんなの、自分の孫にもらえるなら、何をもらっても嬉しいに決まってますよ!」
 自宅の壁に貼られた、孫が小さい頃に描いてくれた似顔絵を思い出して、そう力説する。その勢いに少し驚いたような顔をした彼女は、「はあ…。」と間の抜けた返事をした。いかんいかん、そんなことを言っては根も葉もない。せっかくこうして声をかけてくれたのだ。これも何かの縁だ、役に立つ助言をせねばと少し考えて、言葉を続ける。

 「例えば、お散歩をよくされるならウォーキングシューズ…ジャケットを着られるようなら、たまにはネクタイなんていうものもいいかもしれません。この年でネクタイを贈られることなんて、もうそんなにないですからね。何だっていいんです、本当に何をもらっても、おじいさんはきっと喜ばれると思いますよ。」
 真剣に話を聞いてくれる様子に胸を打たれて、こちらもできるだけ真剣に答える。ふんふんと少し俯いて頷きながら、彼女は何か心当たりを見つけたようだった。
 「うん、そうですよね。気持ちがまずは一番ですよね。せっかくだから、普段使ってもらえそうなものにしてみます。」
 スッキリした笑顔を浮かべ、急に失礼しました。本当にありがとうございました。と改めて彼女はわしに頭を下げた。どうやら役に立てたらしい、ホッとしつつ温かい気持ちで胸をいっぱいにして彼女と別れた。

 さあ、忘れずにみかんを買って帰り、婆さんにこの話をしてやらなくては。持ち重りのする荷物を持ち直して、張り切って買い物を続けて帰路についた。ああ、やはり膝が痛いな。早く帰って座りたいものだと思った矢先。
 「あっ…」
 全力で躓いてしまったのだった。まあ年を取ったらこんなこともあるな、と自分を宥めつつ、しばらくそのままの姿勢で、じんじんと痛む手のひらに苦笑した。それからゆっくり座って、膝を撫でながら散らばった荷物を眺め、はあとため息をついた。邪魔になるから、早く立ち上がらなくては…。


(1908文字)


=自分用メモ=
「一つのみかん」にアナザーストーリーがあったら、と仮定して少し書き進めてみた。あのおじいさんは結局何だったんだ?と自分で思ってしまった部分の補填も兼ねて…。ちょっと強引だし伏線とまではいかないけど、女の子の存在もうまく繋がっていたら良いな。

↓前作「一つのみかん」

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