【エッセイ】不誠実アレルギー
そろそろ「日記」と「エッセイ」の境目が怪しくなってきたなと思いつつ、今日は気分で「エッセイ」ということにしてみる。
自由度が高くてよろしい!
さて、本題。
先日とあるネイルサロンで、非常に不誠実な対応をされた。
一旦出来事すべてを文字に起こそうとしてみたけれど、なかなか煩雑で困難なのでそこは割愛。
ざっくり言うと、そこそこな期間通っていたのに、不誠実かつ不義理なことをされた。
その出来事一件を通して、自分の中で「不誠実」や「不義理」というものがかなりマイナスに作用することを自覚した、という話しをしてみようと思う。
思い返してみると、私は元々「他者のミス」にかなり寛容な方だと思っている。
教員経験で学んだこともあって、何というか…前提として、人間は「間違える生き物」だということを、しっかり理解しているつもりだ。
もちろん、自分も人間である以上、「間違える生き物」に属するわけだから、他者のミスに目くじらを立てることは、自分のミスを許せないことにも繋がってくる。
私は、自分がポンコツだということを知っているし、人のミスをいちいち全部指摘できるほど、できた人間ではないということも、知っている。
でも、だからこそ、義理はかなり重んじるし、自分自身も周囲の人間には誠実でありたい。
もうアレルギーのように、不誠実なことや不義理な人を回避してしまう。
間違えたっていい、そんなこともある。私が腹立たしく思っているのはそんなことじゃない。ミスをしたことそのものではなく、その後誠実に謝ることを欠いてはいけないのだ。
何度も何度も、自分自身の肝にもよくよく銘じる。
もし間違えたなら、それを自覚し納得したなら、相手が誰であれ真摯に対応した方がいい。私は、そういう価値観を持っている。
誠意の有無って、思った以上に相手に伝わるものなのです。
わかるでしょう、「あ、この人本気で謝ってるな」とか「とりあえず、何か言っておこうとしているな」みたいな雰囲気って。
若いから笑って許されるとか、年長者だから謝らなくてもいいとか、そんなこと一切ない。対人間として、あるべき態度を取らないと、自分の株を大いに下げることになる。
もちろん、相手と自分との関係性や、起きた「不誠実な出来事」に差異はあるので、一概には言えない。
でもさあ、でもさあ。
やらかしちゃったら兎にも角にも、謝るしかなくない…?
特に、相手との関係を手放したくないのであれば。
その昔は、不義理なことをされたら不義理なことをし返してやろうとか、嫌なことされたら同じことをしてやろうとか考えていた。
私は自分の中に、わりと好戦的なところがあることは、認める。それは私が持つ、昔からの性質で、多分今もそんなに変わらない。
短気は損気、よくわかっているつもりなんですけどね…!売られた喧嘩を、気分に任せて買ってしまうタイプではある。
それでも、いろいろ経験をして、ぐるりと回った今では「ああこの人は私に、こういうことしてもいいと判断したのだな」という諦めにすぐ繋げられるようになった。
他人に諦められるって、悲しいことだ。
ただ、もしその人の近くにいたら、また不義理なことをされてしまうかもしれない。それで嫌な気持ちになるのはもうごめんだ、と思うと即時「その場を離れる」という選択を取らざるを得ない。
自衛は大切、自分を大切にする権利が私にはある。
何より、「自分が大切にされたいなら、相手を大切にする」というのは、対人関係において基本中の基本だと思うんだよなあ…。
嫌な気持ちになる人や物事に、時間を割くほど暇じゃない。そんな時間があるなら、私には他にしたいことがたくさんある。大切にしたいものがたくさんある。
そんなわけで、私はネイルサロンを探し直す旅へ出ることにする…。もうあそこには行かなーい!あーあ!
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