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アップロード、ヒトミさんの場合(13)

まだまだ困難が待ち受けている


 しかしヒトミさんの行く手には、まだまだ困難が待ち受けている。
 新横浜駅で降り、ミコちゃんの家に二泊して、借りていたキャリーバッグと冬服を返す。懐かしい我が家のようなミコちゃんの家で、移動疲れを癒してから、段ボール一箱分の荷物を海辺のシェアハウスに送る。
    駅まで送ってくれたミコちゃんとハグをして、電車を二度乗り換えて、一時間半ほどで着いた小さな駅前のロータリーは、思ったより閑散としていた。

 開いているお店は、八百屋のようなスーパーと、古い中華料理屋と、新しいクリーニング屋くらいしかなかった。一つしかないバス乗り場にはバスが止まっていて、ヒトミさんが行くべき海の名が行先だったけれど、ヒトミさんはとりあえずスーパーへ寄って食料を買ってから、次のバスを待って乗った。

 十五分ほどで、目的地の最寄りのバス停に到着した。海沿いの国道にあるバス停から、山の方へ階段を上るようグーグルマップに教えられ、さっき買った野菜や肉の詰まった袋と、篠田さんにもらった手作りのキルトのバッグに入れた一日分の着替えを持って、ゆっくりと石段を上って行く。
 
    空き家と思われる家をいくつも通り過ぎ、時々振り返って海を眺め、ようやく、小さな看板の出ているシェアハウスへ到着した。
 シェアハウスは、かなり大きな古い二階建ての民家で、ヒトミさんがこれから暮らすことになる家には、昭和の良き時代の名残りがあった。

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 事前に電話で教わっていた通り、裏口にあるキーボックスの暗証番号を押すと鍵が出てきたので、正面へ廻って玄関から中へ入る。ヒトミさんは、立派な玄関で脱いだ自分の靴のくたびれ具合に少し悲しくなったけれど、洗面所に二台あった全自動の洗濯機と、海が見渡せる大きな窓のある広いお風呂に驚嘆した。
    広々としたリビングとキッチンには、何もかもが揃っていて、ヒトミさんの部屋となる二階の八畳の和室にはテレビもあり、ベランダからは広大な海が見渡せた。つい三日前に、山の麓の法隆寺で一日過ごしていたことを思うと、いま眼前にある海が不思議だった。まるで「どこでもドア」を開いて旅をしているような気分になったヒトミさんは、一体私は何をしているんだろうかと考える。  

 ヒトミさんは、逃げている。しかし、いまは少し、逃げている状況を楽しめるくらいに開き直ってもいて、ただ夫に似た風貌の人を見かけると、カラダの芯がぞわっと震え、恐怖心に囚われて思考停止に陥ってしまうけれど、その瞬間を除けば、全身の細胞が解放感を味わい深呼吸出来るくらいになっていた。
 
 ヒトミさんはいま、何も持っていない。十分な服だって靴だってバッグだって家具だってない。ただ唯一時間だけはたくさんあるような気がするけれど、その時間の過ごし方がわからない。唯一ある予定は離婚調停で、それは明後日。

 広々としたキッチンで、一人分の夕食を作って食べ終え、ゆっくりと大きなお風呂に入り、明るいリビングのソファで、スーパーでもらってきた求人情報誌を見ていると、誰かが玄関のドアを開けて帰って来た。

「こんばんは、お帰りなさい」
 ヒトミさんが声を掛けると、
「ああ、誰かがいるっていいですねえ、こんばんは、ただいま」
 そう言いながら、その人はリビングへ入って来た。
 
 はじめましてとお互いに挨拶を済ませると、マチコさんというふくよかなその人は、三ヶ月前からここにいるのだと教えてくれた。
「夏には賑わっていたらしいですよ、でも九月に私が来たときは、外国の方が一人だけいて、その方もすぐに国へ帰られたので、もう二ヶ月近く一人でちょっと怖かったんですよ、ここ、広いから」

 マチコさんはそれから、ごみの分け方や出し方、毎週月曜に来てくれていた掃除の人が辞めたため自分で掃除をしていること、テレビの映りが悪かったから抗議したら、やっと先月ケーブルテレビに加入してもらえたことなど、この家の最新情報を教えてくれた。

 三十代半ばのマチコさんは、東京で派遣の仕事をしていて、通勤に一時間半以上もかかるけれど、週末にゆったり暮らしたいからと、海辺の町でまずシェアハウスに住むことにしたのだという。一人暮らし用のアパートを探してもいるらしいけれど、いまは大きな家に安い家賃で住めているから、ここが満室になる季節になるまでは、ここにいようかと思っているそうだ。春が過ぎて海岸に海の家が建ち始める頃、ここは満室になるようですよと教えてくれた。

 マチコさんは、ゆっくりと静かに心地良い声で話す人で、ヒトミさんは自分の隣人運に感謝する。たおやかな、という表現が似合うマチコさんに、ヒトミさんがかいつまんで自分の状況を説明すると、マチコさんは目を丸くして、「うわあ、大変ですねえ」と心を寄せてくれる。そして、「こんな辺鄙なところまで追いかけては来ないでしょうから大丈夫ですよ」と言う。マチコさんの温かい声にそう言われると、ヒトミさんは訳もなく安心できた。

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 調停の日、ヒトミさんは裁判所へ入るのが怖かった。夫と鉢合わせするのではないかと思うと、裁判所の玄関にいる警備員だけでは安心できず、叫び出したいような恐怖にかられたが、一歩踏み出さねばならないと勇気を振り絞った。それでも身体の芯ががくがくと震え、この場から一目散に逃げ出したくなった。

 奈良で受け取った裁判所からの書類に書いてある時間通りに、申立人待合所で待っていると、七十代かと思われる年配の女性がヒトミさんを呼びに来た。その地味な女性に連れられて調停室へ入ると、無機質な室内には、ちょっと偉そうな態度で腕を組んで座っているやはり同じくらいの年配の男性がいて、ヒトミさんを案内してくれた女性と共に、その二人が調停委員であることが判明した。
 
 夫は欠席だった。事前に連絡があったらしい。そのことを聞いてからやっとヒトミさんは落ち着いた。
 調停委員の女性が、「今日は相手方が欠席だから、ゆっくり自分のお話をしてね」と、何を話していいのかわからないヒトミさんに、どこで知り合って何年付き合ってどっちがプロポーズしたのか、夫の仕事は順調なのかなど、矢継ぎ早に質問してくる。

 付き合って二年、夫は自分の店で、常連客たちに囲まれて、ヒトミさんにプロポーズした。聴衆に拍手喝采されてスター気取りになった夫は、ヒトミさんがハイと言う前から有頂天だった。ヒトミさんは、四十代も半ばを過ぎて、もう一度結婚出来ることが単純に嬉しかった。しかしいま、もっとちゃんと考えるべきだったと心から悔やんでいる。

 次々と聞かれることにヒトミさんが丁寧に答えていると、うんうんと寄り添ってくれるような素ぶりで女性はヒトミさんをさらに質問攻めにし、男性はふんぞり返ったまま、しかしヒトミさんが言い淀むと話に割って入り、まるで子どもの喧嘩の仲裁をするかのような態度を示すので、ヒトミさんは近所の公民館で、町内会の準備が遅れていることを責められているような気分になった。
 
 調停委員たちは、何でも話し合えば解決出来ると思っているのか、女性の調停委員は、「暴力を振るわれているわけではないのなら、結婚したときの気持ちを思い出して、離れている時間に相手の良い所を思い出してみたらどうかしら」と言った。確かに暴力は振るわれていないけれど、見えない暴力でヒトミさんの心が重傷を負っていることには思い至らないようだった。
 
 調停委員の男性は、「夫婦には同居の義務があるんですよ、なぜ家を出たのですか、生活費を入れてもらえるなら我慢出来ますか」と聞く。「我満出来ないならば、あなたが離婚をしたいのならば、相手方の条件を飲むしかないですよ」と言う。相手方の条件が何なのかまだわからないけれど、離婚調停の場で、旧態依然とした結婚観を持った二人が調停委員であることに、ヒトミさんは愕然とした。
 
 ミコちゃんが、調停委員には当たりはずれがあるらしいよと教えてくれたことを思い出した。ミコちゃんは、ヒトミさんのことを心配して、知り合いの弁護士さんに離婚調停の情報を聞いてくれていて、ミコちゃんの知り合いの弁護士さんは、調停委員は古臭い人が多くて厄介な人も多いと言っていたそうだ。
 
 うっすらと不信感が募っただけの調停が終わり、次回の期日を決めて調停室を出ると、次回は必ず出席すると言っているらしい夫と、この空間で、会うことはなくても同じ場所に存在しなければいけないことに恐怖を覚えた。  
 調停委員たちは、絶対に会わないように出来るから大丈夫だと言ったけれど、彼らのことは全く信用出来なかったし、他人には素晴らしく感じのいい振る舞いをする夫が、彼らを味方につけることは目に見えている。

 調停委員の女性が、本当に離婚をしたいのならば、婚姻費用の請求をするといいとついでのように教えてくれたので、ヒトミさんはそのまま裁判所で婚姻費用の請求の書類を書いて提出した。裁判所の職員に、書類等は海辺の家の住所の方へ送ってもらいたいのですがと言うと、その住所を秘匿してもらえることがわかった。
    別居中でも、年収の高い方が、低い方に生活費を払う義務があるようで、別居中の相手に生活費など払いたくないからと、離婚が早まることが多いらしい。その通説が正しいものでありますようにと祈りながら、一人では到底この局面を乗り切ることは出来ないだろうとヒトミさんは確信した。

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文章 日向寺美玖
装画 アトリエ藻っくん

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