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アップロード、ヒトミさんの場合(10)

「たまには人に甘えなさい」


 こじんまりとしたアットホームなレストランで、きれいに糊の効いた白いテーブルクロスのかかった席に案内されて、「ワイン飲める?」と篠田さんが聞く。
 ヒトミさんがハイと答えると、篠田さんは白ワインを二つ頼んでから、「本日のランチでいいわよね」と言い、ヒトミさんはまたハイと答える。
 篠田さんは、テーブルへ水を持って来た感じのいい女性スタッフに「ランチ二つね」と言ってから、「好き嫌いはないわよね?」と聞くので、またヒトミさんがハイと答えると、「お肉でいいわよね」と聞かれて即座にハイと答え、さらに篠田さんは、「アレルギーはないわよね?」と聞くので、その勢いに押されてヒトミさんが返答に詰まっていると、そばにいる店員さんが笑いながらヒトミさんが答えるのを待っている。大きな声で、ハイ! と答えたヒトミさんに、篠田さんは満足そうに笑いかけた。

「こんなうるさいおばあさんに付き合ってくれてありがとうね、お礼にここは私がご馳走するわ」
 篠田さんは神様のようなことを言う。店内に入ってから、ハイとしか言っていないヒトミさんは、素直に甘えてハイと言うべきか、イイエ、それはいけませんと言うべきか迷いながら正解がわからずにいると、
「迷わんでいいのよ、たまには人に甘えなさい」
 シャキッとした優しい声で篠田さんが言ったので、ヒトミさんの瞳からうっかり涙がこぼれ落ちる。
 
 すみませんと謝りながら、ヒトミさんが涙を拭うと白ワインが運ばれてきて、ヒトミさんの涙を見なかったことにしてくれた篠田さんが、「乾杯!」と言ってグラスを持つ。慌ててヒトミさんもグラスを持ち、カチンとグラスを合わせてからワインを飲んだ。美味しかった。
 ホタテのポワレと野菜のテリーヌを食べ終えると、風味豊かなバルサミコ酢のかかった素敵な野菜のサラダがきて、スープはオマール海老のビスク。メイン料理は仔牛肉のマデラソースで、添えられたキノコ類に秋を感じた。

「はあ、すごく美味しかったです、こんなに美味しい料理を食べたのは久しぶりです」
 ヒトミさんが心からそう言うと、
「ここはコックさんがええのよ」と篠田さん。
 それもあるのだろうけれど、篠田さんの娘になったような気分で安心して嬉しく食べられた食事は、ヒトミさんの心身に優しく染み渡った。
 デザートをお選びくださいと言われ、篠田さんはタルトタタン、ヒトミさんはクレームブリュレ。少し苦めのコーヒーと共に味わう甘味は、極上のランチを完璧に締めくくった。

オレンジ〇

 結構な値段のランチをご馳走になったヒトミさんは、このご恩をいつかちゃんとお返ししなければと思いながら篠田さんと並んで家路につく。十五分ほどの道のりの中で、道沿いのお店の解説を聞きながら歩く。
 新しく出来た和紙のお店のこと、古くからある書店のこと、趣のあるスペイン料理屋のこと、店休日の多いパン屋のこと、篠田さんは何でも知っている。

「ここはね、最初、プラスチックの柵を使っててね」
 篠田さんが指差す方向を見ると、洒落た蕎麦屋があり、入り口までのアプロ―チには、竹の柵がいい感じに隣の古い民家との境目を作っていた。
「こんな景色の中にプラスチックはいかんわ思うてね、そう言いに行ったのよ。すぐに本物の竹に替えはったわ」

「篠田さん、すごい!」
 ヒトミさんが感嘆していると、
「私、プロデューサーになれると思うのよ」と笑う篠田さん。街のプロデュースをするのが篠田さんの夢なのだそうだ。
「なれます!」と力強く賛同するヒトミさんを見て、得意気に微笑む篠田さんが愛おしかった。

「ここは馴染みのクリーニング屋さん」
 篠田さんがそう説明してくれていたところに、ちょうどクリーニング屋さんの奥さんが店から出て来たので、篠田さんはしばし世間話に勤しむ。そして途中で思い出して、「お隣にしばらく滞在しはるの」と、ヒトミさんのことを奥さんに紹介してくれる。
 すると奥さんは、あら、と何だか喜んだ感じで、「正倉院展は行きはった?」と聞くので、あ、まだですとヒトミさんが答えると、「ちょっと待ってて」と言って店の奥へ引っ込み、チケットを一枚手に持って戻って来た。
「はいこれ、良かったらどうぞ」
 奥さんが満面の笑みで渡してくれたのは、正倉院展の招待券だった。
 
 家に帰り着くと篠田さんは、ちょっと寄ってってとヒトミさんを家に上げ、奥の部屋から何枚かウールのコートを持って来た。
「これね、亡くなった主人のなんやけど、着れんかしら。若い人には古臭いデザインやけど、もう断捨離したいのよ」
 仕立てのいい厚手のコートたちは暖かそうで、ヒトミさんの気を引いた。何枚か袖を通して、その中では比較的軽い、でも現代では少し重い濃紺のコートがヒトミさんにピッタリだったので、ヒトミさんは有り難く譲り受けることにした。コートは手入れ良く保管されていたから、グレーの裏地にはシミ一つなく、篠田さんの丁寧な暮らしぶりが垣間見え、ヒトミさんの身も心も温まった。ヒトミさんは全身全霊でお礼を言って、隣家へと戻った。

 ヒトミさんの運のいい一日は、たくさんのありがとうございますで成り立ち、午後はテレビの機嫌もよく、再放送の古いドラマなどを観て過ごすことが出来た。
 夜、篠田さんにもらったコートとストールをハンガーに掛けて、それを眺めながらヒトミさんは、私はいま、完全に人の好意だけで生きていると思った。受けた好意をいつか倍返しでと考えて、恩の倍返しという言葉の使い方が正しいのか迷った。

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 翌日の奈良は小雨。食料がないヒトミさんは、空が明るみかけた午後、買い物へ出掛ける。何十年も玄関に置きっ放しにされていたような古いこうもり傘を差して、家を出た。
 
 古都に優しく降り注ぐ小雨は美しかった。普段は舞い上がっているように思える朽ちかけた建物から出る土埃が、小雨によって落ち着いていて、そのせいか、ヒトミさんの心も若干落ち着いていた。
 
 日々、苦悩と悲嘆で逡巡している心に、小雨はちょうどよい落ち着きを与えてくれる。ヒトミさんはいま、空が晴れ渡り過ぎていると影の中に消え入りたくなり、雨が降り続くと土の中に埋まりたくなってくる。ヒトミさんの心の揺れは、空模様にも左右されていた。

 少し明るい空から落ちてくる小雨の中を歩きながら、ヒトミさんの脳裡にはさっきからハテナマークが浮かんでいて、「あっ!」とやっとその不思議な感覚の正体に気づいてびっくりした。
 鹿だった。鹿が一頭、泰然と歩いている。こんなところにも鹿がいるなんて! 

 驚いているヒトミさんをよそに、鹿は脇目も振らずに真っ直ぐに歩いていて、こんなことは奈良の人にとって日常茶飯事なのだろうけれど、新参者にとっては非日常なことだから、ちょっと前から視界には入っていたけれど、それを認識するまでに時間がかかったのだ。鹿が神の使いであるこの町で、小雨の中の鹿が、ヒトミさんの瞳には輝いて見えた。

 食料品を買い込んで、サヤカさんの古着屋へ寄ると、大学生の女の子たちがファッションショーをしていた。その賑やかな一団に混ぜてもらい、さっきそこで鹿を見たと話すと、「気をつけてくださいね、バッグの中に首突っ込まれたりしますよ」とか、「郵便受けのチラシはこまめに取らないと、はみ出た紙を食べられますよ」とか、奈良の鹿あるあると教えてもらい、一人の女の子が全身を古着でコーディネートした服を全部買うというので、なんだかいいなあとヒトミさんが感心すると、「お金がないから古着でお洒落チャレンジです」と言う。ヒトミさんが、それは実に正しい女子大生の姿だと思うと言うと、その子は嬉しそうに微笑んだ。

 新しく知り合った若い人たちの目には、ヒトミさんは何もしていない優雅な人に見えるらしく、サヤカさんが、そんなもんやでというようにヒトミさんに笑いかけ、「そや、今晩みんなで鍋でもしいひんか?」と提案する。
 女の子たちが「わーい」と喜び、ヒトミさんも「わーい」と真似してみる。

 まだまだファッションショーを続けている女の子たちを置いて、ヒトミさんはサヤカさんのプライベート空間へ足を踏み入れる。古着屋の店舗の奥には仏壇のある普通の居間と、床が少し軋む台所があって、サヤカさんは二階の部屋で寝ているという。

「冷蔵庫の中やら見て、適当にいるもん買うて来てくれるか?」
「ガッテンです」と言ってヒトミさんは、張り切って冷蔵庫を開けたり調味料棚を点検したしたついでに聞いてみた。
「えっと、ここは……」
「うん、大家さんの亡くなったご両親の家やねん。なんもいじらんという条件で借りてんねん」
 
 仏壇にはきちんと水とお花がある。もう使えないという黒い電話機の横には、古い住所録もそのまま残っていて、亡くなった方の暮らしをそのまま引き継いでいるサヤカさんの大らかな暮らしぶりに、ヒトミさんはいたく感心した。

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文章 日向寺美玖
装画 アトリエ藻っくん

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