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アップロード、ヒトミさんの場合(17)

連帯感


 社会は、優しい人ばかりで構成されているわけではない。そんなことは当たり前のようにわかっていたはずなのに、いまのヒトミさんの心には、人の悪意がダイレクトに突き刺さり、汚い言葉を聞くと指先が震えて冷たくなってくる。五十年と少し、ヒトミさんはこの悪意に満ちた世界で無事に生きてこられたことが信じられなくなってくる。
 
 でもヒトミさんと仲のいい入居者さんたちは、それらをちゃんとわかってくれている。
「あの人らは人間の屑だからね、気にしちゃだめよ」
「あんな人たちと同じ土俵に立ってはいけないわよ」
 日々曇っていきがちのヒトミさんの顔色を見て、優しく気遣いをしてくれる。

 ニコニコとヒトミさんの瞳を見つめてくれる上品な松尾さんは、いつもピンクの服を着ていて、三時間毎にヒトミさんを忘れるが、三時間毎に初めて会うヒトミさんが素敵な服ですねと言うと、「おばあさんになるときれいな色を着ないとね」と言って、嬉しそうに微笑んでくれる。
 常にご夫婦で手をつないで歩いている斎藤さんの奥さんは、なぜかヒトミさんの状況を見抜いていて、図書室でご主人がうたた寝をしているときに、棚を拭いていたヒトミさんの手から雑巾を奪い取り、「いつかきっと素敵な人が現れるからね」と言って、ヒトミさんの手を強く握ってくれる。
 会うたびに、「あなたは市役所の人?」と聞いてくる紳士的な細山さんに、そうなんですよとヒトミさんは毎回嘘をつく。いつもきちんとした身なりの細山さんから、「ご苦労様」と毎回会釈してもらい、ヒトミさんは少し罪悪感を覚えている。
 かしましい三人組の上野さんと山井さんと片山さんは、いつも少女のように身を寄せて楽しそうにお喋りをしていて、ヒトミさんが通りかかると必ず呼び止める。そして、「ここはひどいとこだけど辞めないでね」と言い、「私たちはボケたふりをして意地悪な奴らから身を守っているから、あなたもボケてみて」と提案してくれる。

 夫や妻に先立たれて子どものいない方、子どもがいても訪ねてこない方、親族と疎遠な方、家族のことを忘れてしまった方や家族に忘れられてしまった方など、老人ホームは、傍から見ると孤独な人たちの蟄居のように思われるのかもしれないが、ヒトミさんから見ると、そこに暮らす人たちには特別な連帯感があった。 
 
 入居者さんたちと接していると、この仕事について本当に良かったなあとヒトミさんは思うけれど、殺伐とした事務所へ足を踏み入れると、意地悪なスタッフの視線や言葉に吐き気を催したりする。
 だけどいまは辛うじて、ヒトミさんの心のバランスは保たれていて、それはとても危ういバランスだったけれど、きついときは松尾さんの瞳を思い出したり、かしまし娘さんたちの様子を思い出して微笑むようにしていた。

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 朝、シェアハウスのベランダから見る海の色は、毎日毎日違って見える。冬の海は澄んでいて、雲一つない快晴の日は、水平線の群青のグラデーションが、ヒトミさんの脳に気が遠くなるほどの快感を運んでくる。何度海から目を逸らしても、またその青に視線を戻されて、気がつくと何時間も海を眺めていたりする。それはきっと山の緑にも同じ作用があるのだろうとヒトミさんは思った。
 奈良の春日大社の森で浴びた木漏れ日が、ヒトミさんの心に平穏を授けてくれたことを思い出す。人が海や山を好むのには訳があるのだなあとヒトミさんは考える。人は、自然によって癒されることが必要なときもあるのだろう。

 ヒトミさんはまだじっくりと、音楽や絵画や本に向き合えない。それらが心の滋養となることはわかっていたけれど、心に空いた穴は未だ広がり続けていて、その拡張が止まるまで、芸術には触れられない気がしていた。それが止まってしまえば、それらが必要になり、空いた穴は修復されていくのだろう。

 ヒトミさんは、こうやって自分を客観視出来ることが、実は自分の欠点ではないかと思っていた。なりふり構わず人を愛することが出来ないし、感情の赴くまま怒りを爆発させることも出来ない。他人からは、常に冷静であるように思われていたし、それが夫の怒りを買う原因だったかもしれないと思っていた。

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 三回目の調停の日はバレンタインデーで、世間が浮かれている中、ヒトミさんは都会の人混みを抜けて裁判所へ行く。駅で待ち合わせた弁護士さんにチョコレートを渡すべきかなどと平和なことを考え、とにかく今日は部屋の鍵を渡してもらいたかった。
 
 裁判所の近くにある駐車場に、夫の車が止まっているのが見えた。ヒトミさんはたちまち恐怖に囚われた。ヒトミさんがそれを弁護士さんに告げると、「では気をつけて行きましょう」と、まるで逃亡者になった感覚で、周りを見回しながら迅速に裁判所へ入る。
 エレベーターに乗るときは、弁護士さんがヒトミさんを守り、今度はVIPにでもなったような感覚で、エレベーターの扉が開く際にはパパラッチが待ち構えていないか気にするように身構え、いざ扉が開き、誰もいなくてホッとし、待合室へと走る。もうこれだけでヒトミさんは疲れてしまう。

 今回はまずヒトミさんの番が先だったけれど、調停委員に話すことはなく五分ほどで終わり、待合室へ戻って夫が鍵を渡してくれるかを待つ。
 三十分ほどしてまた呼ばれ、調停室へ入ると、机の上に鍵があったので安堵した。あとはそれを使っていつ家へ荷物を取りに行くかの取り決めを行うことになり、今度はヒトミさん抜きで、夫と弁護士さんが同席して、その日程を決めることになった。

 調停委員の男性は、相変わらず、小さな世界で天下を取っているような顔をして座っていたが、でもすっかりへそを曲げてしまっているらしい夫に困り果てているようにも見えて、ヒトミさんは少し気の毒に思った。何でも話し合えば解決出来ると思っている人たちにとって、夫のようなタイプは手に余るだろう。調停委員の仕事も大変そうだなあと同情した。
 
 ヒトミさんがしばらく一人で心細い思いで待合室にいると、弁護士さんが足早に戻って来た。
 今月末に夫が熱海へテニス合宿に行く日があるようで、「その留守時に荷物を持ち出す方向でいいですか」と聞かれ、ヒトミさんが「はい」と答えると、弁護士さんはまた調停室へと戻って行った。

 しばらくして弁護士さんが戻って来て、その日時を教えてくれた。それだけで三回目の調停は終わった。
 
 弁護士さんは、夫が婚姻費用を払う気はさらさらないということを教えてくれた。同居しているときから生活費を払わなかった人なのだから、ヒトミさんはそれについては始めからなんの期待もしていない。申請したのは、払うのが嫌だから離婚に応じてくれることだけが目的だったけれど、婚姻費用については法律できちんと決まっていて、ヒトミさんがアルバイトで得た収入や夫の収入と、さらに家賃や光熱費やらの明細を提出することによって婚姻費用の額が決まり、払わなければ強制的に差し押さえが出来るほどの効力があるらしかった。しかしそんなことをしたら、それこそ夫が何をするかわかったものではない。

 初めて夫と顔を合わせた弁護士さんは、慎重に言葉を選びながら言った。
「簡単なようで、むしろ非常に難しいタイプですね」
「帰り際に小さな声で、お前なんかいつでも殴れる、覚えてろよって言っていましたよ」
 それを聞いてヒトミさんは怯んだが、弁護士さんはちっとも意に介さずに笑っていて、「大丈夫ですよ、そんなことを言うのは小心者の証拠ですから」と言ってまた笑った。

 弁護士さんが夫のことを笑ってくれて、ヒトミさんは救われた。弁護士さんが夫のことを理解してくれ、自分の認識や行動が間違っているのではないかとどこかで不安だったヒトミさんは、安堵して感謝した。

 弁護士さんは、夫のテニス合宿の話が嘘である可能性を心配していた。
 そう、テニス合宿。それは多分本当だ。三ヶ月に一度、夫はテニス仲間と一泊二日のテニス合宿へ行く。ヒトミさんは、どんなときでも何の迷いもなく普段の予定をこなすことが出来るのが夫なのだと知っている。

「一緒に行く人たちがわかりますか」と弁護士さんに聞かれ、「一人、連絡先のわかる人がいます」と答えると、「その方を信頼出来て、連絡を取っても問題がないようだったら、本当に熱海にいるかどうか確認してから行ってください」。弁護士さんは強く言った。

 夫のテニス仲間のうち、ご夫婦で参加している奥さんの方と、ヒトミさんは時々連絡を取っていて、一緒にランチしたりもしていた。その奥さんは、ヒトミさんの苦悩を何となく感じ取ってくれている気がしたから、彼女なら信頼出来ると判断した。

「持ち出すものは、自分のものだけにしてください。結婚してから買ったものは共同財産とみなされますから。慰謝料を請求するなどと訳の分からないこと言い出す人ですから、その点は十分に注意してください」
 四回目の調停は三月末。弁護士さんの忠告を聞きながら、その頃には桜が咲いているだろうか、老人ホームの庭の桜が咲いたらきれいだろうなと、そんなことを考えていたヒトミさんであった。

オレンジ〇


文章 日向寺美玖
装画 アトリエ藻っくん

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