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アップロード、ヒトミさんの場合(12)

闇の中に光があった

 
 篠田さんに教えてもらったバスに乗り、最寄りのバス停で降り、閑静な住宅街を歩く。小さく出ている案内版を見落としそうになりながら、土壁の続く古い細道を進むと、新薬師寺はあった。境内には誰もおらず、本当にここなのだろうかと訝し気に堂内へ入ると、しんとした内部の空気にヒトミさんは圧倒された。
 
 仄暗い堂内には、外からはとても想像出来ない神聖な空間があった。そこは広い空間ではなく、むしろ狭いのかもしれなくて、しかし、穏やかな顔の薬師如来と、それをぐるりと囲む巨大な十二神将の迫力たるや圧巻で、ヒトミさんは言葉を失い、ただ佇み、やがて眩暈がし、ふらふらと隅にあったパイプ椅子に腰かけた。
 
 ヒトミさんの瞳からぽろりと涙がこぼれ落ちる。息苦しいまでにひしめいている仏像たちは、物理的な空間を超え、どこまでも広がる宇宙を見せてくれていた。闇の中に光があった。古いお堂の匂いが、記憶の奥底を照らす。小さなお堂の中には、何もかもが詰まっていた。
 
 ヒトミさんは仏像に詳しいわけではなかったし、それらが何を意味するのかもわからなかったけれど、薬師如来とそれを囲む十二神将の姿にひどく心を打たれ、訳もなく涙が流れ続けた。それはやがて嗚咽に変わり、ヒトミさんがこの世に生まれてからこれまでの人生が走馬灯のように思い出され、死んだ母親も父親も最初の夫も、ヒトミさんの目の前に現れた。彼らは十二神将のようにヒトミさんを囲み、ヒトミさんを守っていた。否、死んだ人ばかりではない、これまでに出会って助けてくれた人たちがみんないた。
 
 外国人観光客の一人が、泣いているヒトミさんにそっと近づいて来て、ティッシュを一枚差し出してくれた。紙一枚では足りないほど涙も鼻水も大量に出ていたが、その気遣いは心の底から有り難く、その人にサンキューと言って笑顔を見せると、その人は軽くヒトミさんの肩に触れてから立ち去って行った。
 
 ヒトミさんのバッグには、ハンカチもティッシュも入っていたけれど、ヒトミさんはそれらを取り出すことすら忘れていたのだ。
 どれくらい座っていただろう。涙が乾き、激しく上下していた肺の動きも治まり、ようやくバッグから取り出したティッシュで鼻水を咬んでしまうと、ヒトミさんはすっきりした。
 
 まるで長いこと極上の湯に浸かっていたかのように全身が軽くて暖かい。この空間から立ち去り難く、何度も立ち上がって出口へ向かいかけるもまた戻り、また椅子に座るを繰り返す。仄暗い闇が心地良く、浄土というのはこういうところかもしれないと思った。
 
 一時間近くそこに居たかもしれない。ヒトミさんは後ろ髪を引かれながらお堂をあとにし、下界へ出ると、庭の大きな紅葉の木の下で、小さな子どもが石蹴りをして遊んでいるのが見えた。子どもの横で、ただ静かに父親が見守っていて、その光景は豊かだった。

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 泣き疲れてお腹が空いたヒトミさんは、さっき通って来た道沿いににゅうめんの店があったことを思い出し、少し戻ってにゅうめんを食べ、店内にあった地図で、森を抜けると春日大社へ行けることを知り、歩いて行ってみることにした。
 
 志賀直哉が住んでいたという立派な邸宅を通り過ぎると、「ささやきの小径」と名づけられた散歩道があって、それが春日大社へ抜ける道だった。森というのか林というのか、とにかく緑の木々が生い茂る中を、行き交う人と挨拶を交わしながら歩く。
 
 木々の中を歩きながら、ヒトミさんは十二神将のことをずっと想っていて、いつか、誰かのために十二神将のようになりたい、でもいまは守られていたいと思った。
「困ったときは困っているとちゃんと言いなさい」とよく父親に言われていたことを思い出し、救援物資を送ってくれるという優しい人が、「困っている人を助けたい人はたくさんいるのよ」と言っていたことを思い出した。
 人に助けてもらうことに後ろめたさを感じず、いつかお返しをすることが出来るよう、いまはこの局面を乗り切るしかない。 

 異物を呑み込んで真珠をつくる貝のように、たくさんの苦しみを呑み込んで、優しい言葉を紡げるような人になりたいとヒトミさんは思った。こんな風に思えるのは、心の平穏がもたらされた証だろうか。それは美しい木漏れ日のなせる技なのかもしれなかったけれど、いまヒトミさんの心には、ゆらゆらと、静かな心の落ち着きが訪れていた。
 
 十五分ほど歩いたら、春日大社の二の鳥居へ出た。そこからはまた人混み。表参道を通り、緑の中に立ち並ぶ朱色の社殿や門や回廊だけを視野に入れながら進み、また参道へ戻る。
 人間と鹿の間をすり抜けるように延々と歩き、奈良公園へ出ると、鹿の数の方が多くなる。野原のような公園の芝生に座り、空を見上げる。このすがすがしい気分がいつまでも続きますようにとヒトミさんは願った。
 
 歩き疲れて家へ戻り、郵便受けに溜まっていたチラシ類を抜き取り、ソファに寝転んで一枚一枚吟味する。中古住宅の安さに驚いたり、知らない地名の読み方を調べてみたり、不動産屋のチラシで遊んだあとは、行政のお知らせを読んで住民になった気分に浸る。
 そして大量の紙類の中に一枚、小さな手書きをコピーした求人募集のチラシを見つける。それは近所の幼稚園の給食を作るパート職員の募集チラシで、時給は安かったが、ヒトミさんはちょっと真剣に考えてみた。そろそろ貯金も尽きる。働かなければいけないと思っていたし、ここで暮らして給食のおばさんになるのもいいかもしれない。
 
 しかし、来週には調停がある。ヒトミさんはとりあえずそのチラシだけを残して他の紙類は捨て、ぼんやりと考える。人生は選択の連続で、いま目の前に選択肢がある。奈良で暮らすか、東京へ戻るか。選択肢があることに気づけただけでも意味があると思えた。
 
 翌日の金曜日の夕方、やっと正倉院展へ行ったヒトミさんは、少し並んだだけで入館出来て、篠田さんの言うことは何でも正しいと感謝した。
 いにしえの日本の宝物の数々を見て、篠田さんに報告するため、何が心に残るかということを考えながら鑑賞するという、何だか邪道な見方をしながら、螺鈿細工の箱や美しい文様の衣裳などを心に留めた。
 
 この頃は毎夕、篠田さんが晩ごはんを届けてくれる。おでんにカレーにコロッケにお煮しめに酢豚にエトセトラ。昭和の時代の貧乏な書生になったような気分で、有り難く差し入れをいただく。
 
 東京から救援物資も届く。重い段ボールには、優しい気持ちもいっぱい詰まっていて、パスタや缶詰やパウンドケーキや漬物などと共に、簡単な手紙が入っていた。
「夜明け前の闇が一番暗いんだって、もうすぐよ、ファイト!」
 そう締めくくられた力強い文字を見て、ヒトミさんの胸の内にほんのりと勇気が湧いた。

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 荷物をまとめたヒトミさんは、来るときには半分しか入っていなかったミコちゃんのキャリーケースが、えいやっと力を入れて閉めなければいけないほど荷物が増えていることに驚いた。
 サヤカさんのお店で買った古着や、篠田さんにもらったコートやストールに加え、さらにまた追加で篠田さんが持って来てくれた毛糸のマフラーや温かいインナーなど、これから迎える冬への備えが揃っていた。

 サヤカさんのお店の常連さんの東京にいる息子さんが、都会での一人暮らしは寂しいからシェアハウスに住んでいるという話を聞いて、ヒトミさんは、ああ、私もそうしようと思って調べてみたところ、シェアハウスというのは案外たくさんあって、ヒトミさんは東京から一時間半ほどの海辺にあるシェアハウスを見つけた。保証金二万円を払うと、五万円の家賃で大きな家に住めるようで、冬の海辺は人気がないのか、六人入居可能のシェアハウスには、いまは一人しか入居していないとのことだった。
 
 奈良で過ごした一カ月ほどの間に、すっかり揺り戻しもなくなったヒトミさんは、まるで薬物依存者が回復するための隔離期間のようだったなあと思いながら、しかし住む家があり、優しい隣人に恵まれ、新しい友達も出来て、さらに神社仏閣に囲まれていた自分の幸運に気づいた。
 それからのヒトミさんは、毎日毎日奈良の観光名所を訪ね歩き、篠田さんが地図につけてくれた印の場所を全部踏破した。
 
 私は運がいいのだ。そう考えられるようになったヒトミさんは、闘うための準備が整ったような気がして、奈良の家をきれいに掃除して整えてから、篠田さんの旦那さんのものだったコートを着て、篠田さんの家のチャイムを鳴らした。

「もう行くの?」
「はい、そろそろ出ます」
「気をつけてね、頑張るのよ」
「はい、本当に、たくさんのご厚意をありがとうございました、このご恩は……」とヒトミさんが言いかけると、
「あのね、私にお礼しようなんて思わなくていいのよ、お互い様なんだから、私は楽しかったんだから、持ちつ持たれつなんやから。ね、そのコート、よう似合うてるわ」
「大事にします、ありがとうございました」
 
 もう親のいないヒトミさんにとって、子どものいない篠田さんから注がれた厚意は、ただ短期間の隣人であったということを超え、少なくともヒトミさんにとって、とても有意義なものに思えた。帰省した実家から都会へ戻る娘のように、篠田さんとの別れには、寂しさと切なさを覚えた。
 
 ヒトミさんは深々とお辞儀をしてから玄関の扉を閉め、篠田さんが大切にしているたくさんの植木鉢の花や木々にもお別れを言った。
 それから奈良の家に鍵をかけ、鍵を開けたままの台所の窓を開け、窓際のテーブルの上に伏せておいたフライパンの下に鍵を置く。窓を閉め、キャリーケースを転がしながら、サヤカさんの店に寄る。

「もう行くんか?」
「うん」
「ありがとうな、楽しかったわ、頑張るんやで」
「こちらこそありがとう、頑張るよ」
「いつか東京行くよって、向こうで会おうな」
「うん」

 サヤカさんに見送られ、ヒトミさんは駅までの道を歩く。来たときには知らなかった人々の名前を知り、共に美味しいごはんを食べ、楽しい時間を分かち合い、さよならまたねと言い合える関係性が出来たことに、驚きながら感謝をする。

 もうすっかり第二の故郷になったような奈良を離れる電車に乗って、また車窓に富士山を見る頃には、これまで背負っていた苦しみが、半分くらいは取り除かれているような気がしていた。

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文章 日向寺美玖
装画 アトリエ藻っくん

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