見出し画像

アップロード、ヒトミさんの場合(16)

不信感


 前回欠席だった夫は今回は出席していて、先に夫の話を聞くということで、ヒトミさんは弁護士さんと申立人待合室で待っていた。同じ建物に中に夫がいると思うだけで、恐怖心から吐き気がしてきたけれど耐えた。
 
 待合室は混んでいて、苛立ったり切羽詰まったような人々が、各々の弁護士たちと打ち合わせをしたり、どこかに電話をかけていたりしていたが、何も話すことのないヒトミさんとヒトミさんの弁護士さんは、静かに順番を待っていた。

 三十分ほどして、前回と同じ調停委員の女性が呼びに来て、ヒトミさんが弁護士さんと一緒に調停室へ入ると、調停委員の男性は驚いたような顔を見せたが、「いまご主人にお話しを伺ったところ、離婚する気はないということでした」と言った。

 調停委員の女性が、「悪いところは治すって言っていたわよ、とても感じが良かったわよ、考え直せないの? 好きで結婚したんでしょう」と言い、調停委員の男性がとても偉そうに、「勝手に家を出て行ったあなたも悪いんじゃないですか?」と言ったので、ヒトミさんは、「はあ?」と思ったが、ヒトミさんが口に出してしまいそうな直前に、弁護士さんが、「はあ? 何を言っているんですか」と言ったので、思わずヒトミさんは弁護士さんの顔を見て、ヒトミさんと目を合わせて頷いてくれた弁護士さんのことを、うっかり好きになりそうだった。

「依頼人がなぜ家を出て、いま隠れているのかおわかりですか? 警察にも相談しているんですよ」
 弁護士さんが強く言うと、
「しかし暴力を振るわれたわけではないんですよね」
 と調停委員の男性は言う。
 話にならないと感じたらしい弁護士さんが、
「とりあえず部屋の鍵を渡してください、依頼人は自分の荷物も取りに行けなくて困っているんですよ」と言う。
「わかりました、それは伝えましょう」と調停委員の男性が言う。
「こちらの希望としては、離婚と、離婚に応じるまでの婚姻費用の請求と、依頼人の荷物を渡してもらうことです」
 弁護士さんは、ヒトミさんの代わりに強く言ってくれた。

 調停委員たちへの不信感をさらに抱いただけの三十分が終わり、少し憤慨している弁護士さんと共に待合室へ戻ったヒトミさんは、夫が一瞬にして調停委員の心を掴んだのだろうと思った。弁護士さんは、「多分、調停では埒が明かないでしょう、裁判にした方がいいと思いますよ」と言ったので、ではその方向でとヒトミさんは同意した。

画像1

 三十分待ってからまた調停室へ入ると、「ご主人は、離婚するなら慰謝料を請求すると言っています」と、調停委員の男性が威張った感じで言った。
 呆れた弁護士さんが、「どうしてそんな発想になるんでしょう」と苦笑いすると、調停委員の男性は、「夫婦には同居の義務がありますからね、勝手に出て行かれて精神的打撃を受けているから、その償いをしてほしいそうです」と勝ち誇ったように言った。

 それを聞いてヒトミさんは、思わず声に出して笑ってしまった。それは場違いな笑いだったが、その笑いには恐怖を緩和する効果があったのか、ヒトミさんに勇気をもたらした。ヒトミさんが闘う相手は三人に増えたが、こちらには頼りになる弁護士さんがいる。

「家の鍵を渡してください」
 ヒトミさんは強く言った。
「ああ、それね、いまはないんだって」
「次の調停のときに持って来るように言いましたから」
 調停委員たちは、薄ら笑いを浮かべながら言った。

 なんだそれはとヒトミさんは思ったけれど、弁護士さんは冷静に、「では必ず次回、鍵を渡すように言ってください」と言い、次回の期日を決め、「それから次回で物別れになるようでしたら裁判にします」と言い置いて、ヒトミさんと共に調停室を出た。
「ご主人は、ちょっと変わった思考の方のようですから、慎重に進めましょう」
 弁護士さんとヒトミさんは、鍵を渡してもらったらどうやって荷物を取りに行くか考えながら、待合室へ戻った。

 調停を経て裁判にしても、一ヶ月に一度程度しか期日がないので、平均的な離婚成立までの期間は一年くらいなのだと弁護士さんは教えてくれた。「苦痛だとは思いますが、間違いなく離婚出来ますから大丈夫です。しかし、時間がかかることは覚悟しておいてください」。

 夫と鉢合わせしないよう、充分な時間を置いてから、ヒトミさんは弁護士さんと一緒に裁判所を出る。別の事件へ向かうという弁護士さんに駅まで見送ってもらい、ヒトミさんは帰途についた。

画像2

 こじれずに、話し合いで別れられる相手なら、調停や裁判になることはない。一、二回の調停で簡単に解決出来るのかと思っていたヒトミさんは、そんなに簡単なことではないのだと知り、ああ、どうしてこんなことになったのだろうとまた吐き気を覚える。自分の愚かさを呪いたくなる。

 弁護士さんの言った、ちょっと変わった思考の方と、なぜ結婚してしまったのか。そもそもどうして好きになってしまったのか。ヒトミさんは、思い出せないというより考えたくなかったが、考えないわけにはいかなかった。
 
 いまより若かったヒトミさんには、彼の、他の人とは違う不思議な思考が新鮮に見えたのかもしれない。彼と一緒にいると、退屈な人生を送らなくてすむと思ってしまったのかもしれない。確かにある意味、退屈ではない人生になってしまったけれど、魅力に思えた自信に満ちた生命力の強さは、いまは他人を利用して自分の願望を叶えたいだけの身勝手な自己愛に思えるし、時折見せる優しさは、自己満足のための手段だったのだろうとしか思えない。
 優しくて力強い魅力的な男は、多くの女性を惹きつけるけれど、裏を返せばただの演者でしかないこともあり、彼らは自己肯定感が強く、自分のことが大好きで、いつも賞賛を求めている。ヒトミさんは、何も気づかずに彼を満足させがちだった自分を呪った。

オレンジ〇

「あなたはどこで生まれたの?」
 老人ホームの入居者さんたちは口々に聞いてくる。
「九州です」と答えると、
「まあ、いいわねえ」と口々に言う。
 認知症の進んだ方からは、毎度同じ質問を受けるけれど、毎度同じ答えを返すことがヒトミさんには苦ではない。むしろ楽しかった。ヒトミさんを毎日忘れてくれて、毎日新たに出会ってくれる素敵な人たちは、澄んだ目をしている。

 入居者さんたちの居室で、トイレやお風呂の掃除をしていると、「ねえ、これを見て」と、家族のアルバムを見せてくれる方もいる。趣味の水彩画を見せてくれる方もいる。そんなときは有り難く見せてもらう。

 ある夕方、居室についている小さなキッチンで美味しそうなステーキ肉を焼いていた方が、お風呂の掃除を終えたヒトミさんに、「はい、これ、今晩のおかずにどうぞ」と言って、アルミホイルで包んだステーキ肉を差し出してくれた。
 アルミホイルで包まれた肉は温かく、その方の温かい心のようだったけれど、施設の規則で入居者さんから物をもらってはいけないことになっているので、「規則で……」とヒトミさんが言いかけると、「何言ってるの、肉くらいいいじゃないの」と意に介さず、その方は無理やり、ヒトミさんの制服のエプロンのポケットに温かい肉を押し込んだ。

 ヒトミさんは、ポケットに温かい肉が入っていることが可笑しくて、丁寧にお礼を言ってから、施設長に見つかるのではないかとひやひやしながらこっそりと持ち帰り、有り難く夕食にいただいた。

 介護スタッフや看護スタッフの中には、毎日同じような仕事にストレスが溜まるのか、その捌け口を入居者さんたちに向ける人もいる。
「認知症のやつらはまとめて同じ階にしてさ、もうその階は放置しようぜ」 
 ある男性看護師は、ドアを開けた事務所内で、入居者さんたちにも聞こえるような大声でとんでもないことを言う。そのあとに必ず、「あいつら、めんどくせえから早く死んでくんねえかな」と、信じられない暴言を吐く。

 ナースコールが鳴っても無視を続ける女性介護士もいる。
「どうせ退屈なだけなのよ、私、あいつ大嫌い」と言って、緊急かもしれないコールに応えず、しかし彼女のお気に入りの入居者さんには猫撫で声で、「どうしましたかあ? すぐ行きまーす」などと答えている。
 ヒトミさんは、勤怠表を書くために事務所へ入るのが恐ろしかった。

 廊下の掃除をしていると、ベテラン介護スタッフが、新人介護スタッフに理不尽な難癖をつけて怒鳴りつけている場面に出くわすこともあり、ヒトミさんの心はひどく痛む。このホームでは、気の優しい介護士さんほどすぐに辞めていくという噂だった。

 ホームのスタッフには、入居者さんたちを病院や買い物に送迎するための運転手もいて、彼らは全員リタイアした男性で、思いやりのある人もいたけれど、なかには心無い人もいて、お年寄りをモノ扱いし、車に乗せるときに手を貸さない人もいる。しかもその人は、若い女性スタッフのお尻を触って喜んでいて、清掃スタッフを小馬鹿にし、すれ違い様、廊下の手すりをこれ見よがしに指でなぞり、「なんだよ、ちゃんと掃除しろよ」と舌打ちをして通り過ぎる。

 ある日ヒトミさんが、送迎車を待っていた入居者さんに、「運転手さんはもうすぐ来ますから、あと少し待っていてくださいね」と声を掛けていると、それを見ていたらしいその人が、ヒトミさんを休憩室に呼び出した。

「あのさあ、俺のこと運転手って言わないでくれる? 俺はドライバーなんだよ、ド・ラ・イ・バー」と言われた。
 日本語と英語にどんな違いがあるのかヒトミさんにはわからなかったけれど、ちょっと笑いが漏れそうだったけれど、彼の謎の怒りに触れることは避けたかったので、黙ってハイと答えておいた。

 全ての介護施設がこんな風ではないと思うけれど、テレビのニュースやドラマで見るようなひどい現場に初めて遭遇したヒトミさんが、あまりのことに、介護の仕事をしているミコちゃんに愚痴をこぼしたら、ミコちゃんは、それはテレビ局か新聞社に垂れ込んだ方がいいレベルだと怒っていた。
 そしてそのあと、「ウチはそこまでひどくないけど、そんな意識の人がいるのは確か。それは介護業界の忌々しき問題なんだよね」と言って嘆いていた。

画像4


文章 日向寺美玖
装画 アトリエ藻っくん


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?