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アップロード、ヒトミさんの場合(21)

ヒトミちゃん!


 その日がちょうど、一年前に夫と暮らす家から出奔した日だと気づいたのは、それが故郷の祭りの日だったからだ。

 一年前、ヒトミさんはミコちゃんの家で、その祭りをちらりと観た。ニュース番組の中で流れた故郷の風景は、あのときのヒトミさんには遠過ぎたけれど、いま故郷は、ヒトミさんの足元にある。

 祭りのために、町のホテルは満室だったので、祭りが終わるまで、叔父の住む島へ渡ることにしていたヒトミさんは、夕方の船に乗るまでの間、懐かしい故郷の町で、賑やかな祭りを見学し、高校時代に遊んだ商店街を彷徨い、町を練り歩く山車と遭遇して写真を撮り、観光客に紛れながら時間を潰していた。

「ヒトミちゃん!」
 突然名前を呼ばれてヒトミさんが振り向くと、そこには高校時代の同級生がいた。
 人混みの中、三十年ぶりに再会した同級生は、高校時代と何も変わらないように見え、「わあ、久しぶり」と喜び合い、「お互いに変わらないねえ」と言い合いながら、変わらないはずはないのだけれど、月日を飛び越えて瞬時に認識し合えたことが、ヒトミさんはとても嬉しかった。

「帰って来たと?」
「うん」
「住んどると?」
「ううん、ちょっと帰って来ただけ」
「いつまでおると? いつ帰ると?」

 素晴らしく近い距離感で、同級生が根掘り葉掘り聞いてくることが、全く不快ではなくむしろ嬉しく、ヒトミさんは何でもすらすら答える。

「じゃあさ、島から戻ったら、みんなで会わん?」
「うん、よかねえ、じゃあホテルを取るよ」
「いやいや、ホテルやら取らんでよかよ。ポンちゃんのところに泊まったらよか。大きか家に一人で暮らしとるけん」
「でも急に……」
「よかとよ、みんな生活に疲れたらポンちゃん家に逃げ込むけん、誰でも泊まっていいとさ」

 高校三年のときに同じクラスだったトオコは、隣のクラスだったポンちゃんの家にヒトミさんを泊まらせることを勝手に決め、「私に任せとかんね」と言ってヒトミさんのラインと繋がり、「じゃあ、島から連絡してねえ」と言いながら、祭りの世話人の仕事に戻るために足早に去って行った。

 祭囃子を後方に聞きながら、ヒトミさんは船に乗る。青い海と空しか見えない船中で、ヒトミさんは、いまも仲がいいらしい同級生たちのグループラインに招待される。
 ラインの名前や写真では誰が誰だかよくわからなかったけれど、続々と、「お帰り」「会えるの楽しみにしてるよ」というメッセージが届き、思わず通知をオフにしてしまうほど、ラインの画面にはヒトミさんを歓迎する文面が現れた。
 誰もいないと思っていた故郷に、愉快な同級生たちがいたことを、なぜ忘れていたのだろう。ヒトミさんには、再び繋がった線が、天から伸びている糸のように思えた。

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 島の港には、ヒトミさんの叔父が迎えに来てくれていた。
 少し乱暴な運転の叔父の車の助手席で、相変わらず釣り三昧の生活なのかとヒトミさんが尋ねると、「そや、今日はええのんが釣れたで」と、島の生活より大阪暮らしの方が長かった叔父が答える。「ウチの奥様は大変やけどな」。毎日釣果を捌いてくれる優しい妻のことを、叔父はいつも奥様と呼ぶ。

「おまえも大変か?」
「うん、それなりに」
「ま、ゆっくりしていけ、おっちゃんら毎日暇やから」

 その夜は、叔父の釣ったカマス三昧の夕食で、翌日はイカ三昧だった。ヒトミさんは、叔父が日課の釣りから戻って来て昼寝をすると、叔父の車を借り、叔母と二人で島の温泉へ行く。

「ねえ、叔母さん、島での暮らしは幸せ?」
「そうやねえ、まあまあや」
「大阪に戻りたいと思ったりする?」
「たまにな、友達に会いたい思うことはあるけどな、私らはここで生まれたからな、子どもの頃の友達と復活してんねん」
 
 結婚して二人で島を出た叔父と叔母は、リタイア後に島へ戻り、のんびりと暮らしている。何も聞かないでいてくれる二人にもてなされ、ヒトミさんはいま、ゆっくりとお湯に浸かっている。

「先に出て休んどるから、ヒトミちゃんはもっと浸かっとき」
 叔母は、休憩室で寝転がるのも温泉の効用の一つだと信じているから、ヒトミさんは遠慮なく一人で湯に浸かる。結構な音量で流れている有線放送が邪魔だなあと感じながら、島で暮らしてみる可能性を探るが、とりあえずいまは何も考えまいと、少し塩味のする湯にざぶんと頭まで潜る。

 湯から上がり、のぼせ気味の身体に冷えたフルーツ牛乳を投入して、ヒトミさんは休憩室で叔母の横に寝転がる。
「今夜はすき焼きにしよか」
 叔母は、ヒトミさんが十分に大人であることをすぐに忘れて子ども扱いするので、島での食卓は、毎晩お誕生日会のように豪華だ。

 温泉帰りにスーパーへ行き、信じられないくらい安くて新鮮な野菜や牛肉を買う。三人で賑やかに夕食の準備をして、叔父の下手な駄洒落で盛り上がる楽しい夕餉の時間が終わると、島ではもうすることはなかったけれど、それでいいのだと思えた。

 何かしなければとか、何か考えなければとか、強迫観念にも似た思考に支配されていたヒトミさんは、いま、もう何もかもどうだっていいという開き直りの境地に達していて、常に忙しく働き続けていたヒトミさんの交感神経は切断された。
 
 なるようにしかならないのだと、ヒトミさんは考えることをやめることにした。考えることをやめようとまた考えてはいたが、持参した本を読むことが出来ていて、落ち着いて本を読めるということは、ヒトミさんにとって立派な前進だった。

 ヒトミさんは、早起きして叔父と一緒に釣りにも行った。毎日温泉に浸かった。少しずつ、心が軽くなってきて、少し日焼けもしたりして、叔父の家に十日間お世話になってから島をあとにし、同級生たちが待つ故郷の町へ戻った。

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 土曜日の午後、港まで車で迎えに来てくれたトオコが、高台にあるポンちゃんの家まで連れて行ってくれた。ポンちゃんの家からは故郷の町が一望出来る。改めて見る故郷の町は美しかった。

「みんなで料理を持ち合って集まることになったけん、私もいったん帰るけん」と言って、トオコはポンちゃんの家を急いで出て行く。
 ポンちゃんとヒトミさんは、自分たちの共通点である両親を亡くしていることや、子どものいないことについて、静かに語り合う。
「思っていたよりきついよね」とポンちゃんが言う。
「うん、じわじわくるね」とヒトミさんが言う。
 
 夫はいても離婚裁判中のヒトミさんと、ずっと独身のポンちゃんには、自分の家族がない。
「でもね」とポンちゃんが言う。
「みんながよう来るとよ、しょっちゅう集まって、ウチでわいわい騒いで、今日は主婦業を休むとか言って泊まってったりする子もおるし、友達が、家族のごと来ると。だけん私は寂しくないとよ」

 ポンちゃんは幸せそうだ。ポンちゃんとこうやってゆっくり話すのは、実に三十年ぶりくらいだったけれど、ポンちゃんの声のトーンがあの頃と全然変わっていないことに、ヒトミさんは感動していた。ポンちゃんの声は穏やかで、いつも人を落ち着かせるトーンなのだ。

 ポンちゃんが、広いキッチンで春巻きを作り始めたので、ポンちゃんのお母さんのものだったエプロンを借りてヒトミさんも手伝う。
「みんなどんな料理を持って来るのかなあ」とヒトミさんが聞くと、「ばらばら」とポンちゃんは笑う。いつも事前に何の打ち合わせもなく、みんな好きなものを持って来るらしい。

「ヒトミちゃんさ、ウチに住んでもよかよ」
 ポンちゃんが、春巻きの具を炒めながら唐突に言う。
「ええっ?」
 ヒトミさんはびっくりして、冷蔵庫から取り出そうとしていた春巻きの皮を落としそうになる。
「だってウチ、一人で住むには広過ぎるもん」
 確かにポンちゃんの家は、旅館が出来るくらい広くて、掃除だけでも大変そうだ。
「うん、ありがとう。そう言ってもらえるだけでむちゃくちゃ嬉しい」
 ヒトミさんはまだ、故郷の言葉がなかなか上手く出てこない。

 ポンちゃんに指示されて、ヒトミさんがポンちゃんの大事なぬか漬けをぬか床から発掘していると、玄関が開く音がする。
「ヒトミちゃーん!」
 駆け寄って来たのはユカちゃんで、両手に持ったタッパーをテーブルに置いてから、ヒトミさんをハグする。
「久しぶりー。なんか大変かとって?」
「うん、でももう大丈夫」
「そっか、もう帰っておいでよ」
 
 ユカちゃんも変わらない。「変わったのは体重だけたい」と朗らかに笑うユカちゃんに笑っていると、それから続々と懐かしい友人たちが集まって来て、みんなから大丈夫かと聞かれ、みんなから帰っておいでよと言われ、ヒトミさんは嬉しくなってくる。

 みんな、下拵えをした料理を持参していて、勝手知ったるポンちゃんのキッチンで、下味の染み込んだ豚肉を焼いたり、切ってきた野菜を盛り付けたり、煮付けた野菜を温め直したり、新鮮な鯛の刺身にオリーブオイルをかけたりと、ポンちゃんのキッチンは大賑わいになってくる。トオコに至っては、ホットプレートまで持参していて、コチュジャンに漬けていたらしい大量の鶏肉を使ってタッカルビを作り始めている。

 ポンちゃんの家の大きな冷蔵庫には、出番を待っていたビールが大量にあったので、キッチンで作業をしながらみんなで飲み始める。
 旅館の大広間のような畳の部屋に、テーブルを二つくっつけて、そこにご馳走が並べられる。懐かしい顔の同級生たちは、ヒトミさんを入れて総勢十名にもなり、それぞれが持ち寄った料理の乗ったテーブルは、ホテルのバイキング並みに豪華で、食べる前から幸せになる。

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「では、ヒトミちゃんに乾杯!」
 トオコの音頭でグラスを鳴らした頃には、宴はすでにたけなわで、「これ懐かしかろ」と、郷土料理を無理やり口に入れられたり、「これ高校んときによう食べよったかまぼこっ」と取り皿に置かれたり、ヒトミさんの口の中も取り皿もいっぱいになって、あり得ないほど近いみんなの距離感が、素晴らしく心地良かった。

 専業主婦だったり仕事をしていたり、独身だったり離婚していたり再婚していたり、子どもがいたりいなかったり、カナちゃんにはもう孫もいるそうだけれど、そんなことは全然関係なかった。私たちは高校生の頃と同じで、私たちは私たちでしかないのだとヒトミさんは思った。

「高校の同級生って、賢いとこも馬鹿なとこも同じレベルやけん仲良く出来るとよ」
「偏差値とかIQとか同じくらいやけんね」
「干支も一緒やしね」
「話が通じるって気持ちよかねえ」
「職場の友達とはやっぱり全然違うよねえ」
 
 それぞれが言いたいことを遠慮なくあちらこちらで言い合っていて、ふとヒトミさんが、私はどうも結婚に向いてないような気がすると言うと、全員が振り返り、「うん、高校のときから思っとったよ、いま気づいた?」とか、「いや、大好きな人と死別したら忘れられんのは当たり前やん」とか、「いまの男が合ってないだけたい」とか、意見が分かれる。
 やがて、「顔で選んだらいけん」ということでみんなの意見が一致して、ヒトミさんは、いつも相手を顔で選んでいたかもしれないことに気づき、なぜみんながそれを知っているのだろうと不思議だったけれど、無性に可笑しくて可笑しくて、何度も何度も大笑いした。

 二十七歳で夫と死別して、三十歳で上京したヒトミさんは、二十年か三十年ぶりに会った同級生たちと、十七歳の頃に戻っている。祭りの人混みの中で、ヒトミさんを見つけてくれたトオコに感謝する。
 要介護の親を抱えていたり、息子の進学先に悩んだり、再婚するか思案していたり、同級生たちの人生もいろいろで、ヒトミさんは、自分の問題も大したことではないと思えた。

 あんなにあったご馳走が消え、昔ほど飲めなくなったねえと笑い合い、賑やかな宴は終わってしまう。でもまだまだ忙しく喋りながら、みんなで後片付けをする。そして、それぞれの夫や娘が迎えに来たり、タクシーに乗り合ったりして、愉快な仲間たちがみんな、自分の家に帰って行った。

 静かになった大きな家で、ポンちゃんと二人、見事な夜景を眺める。ここで民泊始めてもいいかもねえと呑気にまたビールを飲み、ポンちゃんが用意してくれたお風呂に入り、今夜はどれだけ飲んでも気持ち悪くならないだろうと思ったヒトミさんは、お風呂上りにまたビールを飲んでから眠った。こんなに飲んだのは、二十代の頃以来だなあと思っていた。

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文章 日向寺美玖
装画 アトリエ藻っくん


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