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アップロード、ヒトミさんの場合(8)

「無理に先へ急ぐことはないんですよ」


 ヒトミさんが、ヒトミさんの束の間の我が家の玄関を開けると、一晩だけでも人が寝た部屋は、空き家の空虚感が少し和らいでいるようにも見えた。ヒトミさんは、掃除用具がどれほどあるか点検してから買い物へ出かけた。
 
 篠田さんが教えてくれた百円ショップやドラッグストアがあるという商店街へ行き、ドラッグストアの前で店員さんが、日中韓の三か国語で呼び込みをしていることに驚き、和物を扱っている店内の西洋人率の高さに驚き、ちょっと早いお昼でも食べようかと思っていたのにどの店も行列していて、ああ奈良は、大変な観光地なのだと思い至る。
 ヒトミさんは、洗濯用洗剤や台所用洗剤や重曹やゴム手袋やスポンジなどを買い込んで、「天下一品」でラーメンを食べてから家へ戻った。
 
 ところでこの家の洗濯機は二槽式だった。久しぶりに、洗濯物が回り続ける渦を見て、やっぱり二槽式洗濯機は信用出来ると訳もなくヒトミさんは思った。洗い終わった洗濯物を脱水槽へ移すときは手が冷たくて、でもそれをぎゅうっと脱水槽へ押し込む感触が懐かしかった。盛大に濡れた洗濯物を脱水槽へ入れる際は、それらを均等に押し込まないと、洗濯機全体がガクンガクンと揺れ始めるのを知っている世代のヒトミさんは、慎重に、何度も何度も洗濯をした。
 カーテンやシーツを洗い続け、その間に掃除機を掃除してから掃除機をかける。ソファやカーペットに重曹を振りかけ、しばらく置いてから掃除機をかけ、固く絞った雑巾で拭き上げる。二槽式の洗濯機が、ひっきりなしにヒトミさんを呼ぶので、左の槽から右の槽へ、右の槽から左の槽へと移す作業を繰り返す。だんだんそれが「洗い」だったのか「すすぎ」だったのかわからなくなってくるくらいヒトミさんは洗濯し、掃除した。
 
 椅子に乗って、天井も壁も拭いた。小さな食器棚の中にある食器を全部出して洗った。食器棚も拭いた。押入れの中の布団を全部出し、押入れを拭いてから、比較的新しいと思われる布団以外を奥へ仕舞い、新しいと思われる布団に掃除機をかけた。買ってきた雑巾が全部真っ黒に汚れてしまったので、最後に洗濯して干した。

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 今日が晴天で良かったと、庭にずらりと干された洗濯物を眺めながらヒトミさんは紅茶を飲む。両手の冷たさを紅茶のカップで温める。小さなガスファンヒーターがものすごく頑張って熱風を出し続けてくれたけれど、この先、寒くなるばかりの部屋で必要になるのは冬の服だ。
 
 ヒトミさんは、東京の部屋のことを思った。夫はちゃんと冬服を出せるだろうか、冬のコートの在りかがわかるだろうかと考えて、いや、そんなことは考えてはいけないとすぐに思い直した。 
 一通りきれいになった部屋で、いま恋しいのは、ヒトミさんお気に入りの茶色のラグだった。毛足の長い柔らかいラグの上で、ふかふかのクッションと共に横になりたかった。冬物の服やマフラーのことも懐かしかったけれど、一番恋しいのがラグだなんてと思いながら、胸の内に渦巻く不穏な煙のようなものにまた脅えた。
 
 いま、ヒトミさんは、帰りたいと思い始めている。何度も繰り返し夢に見た一人の時間が、いま、ここにあるというのに、一人でいることに罪悪感と恐怖を覚えている。それは新しい人生の領域への一歩を踏み出す畏れでもあるのだと感じながらも、もしかしたら間違った道に進もうとしている畏れなのではないかとも考える。

 これは揺り戻しなのだ。ヒトミさんは自分にそう言い聞かせる。夫から逃れるための具体的な策を練ることは出来なかったヒトミさんだが、毎夜寝る前に、そんな夫たちから逃れた人たちのブログを読んだり、精神科医が書いた共依存からの脱出方法を読んだり、ネット上で予習はしていた。
 
 逃れたあと、襲ってくる揺り戻し。それは、日々のささやかな営みの中で、そう、例えば掃除とか洗濯とか、これまでの厳しい日常の中のひとときの息抜きであった単純な家事作業などが、苦しかった生活の中の幸せな時間として思い出され、そんなに悪い結婚生活ではなかったのではないかなどと思ってしまうのだ。
 そして、置き去りにしてしまった夫への罪悪感から、また苦しみの中へ戻っていく人がたくさんいて、永遠にそのループから抜け出せなくなっていく仕組みが存在するらしい。
 
 でもヒトミさんは知っている。罪悪感を持たない人たちがいることを。そういう人たちは、置き去りにされたことを恨むだけで、自分にも悪いところがあったのだろうかなどと微塵も考えない。人は、自分の感情の揺れ方を基準として他人の心を慮るものだが、良心を持たない人たちにそれは通用しない。常に悪いのは他人で、暴言を吐くことでストレスを解消し、他人が苦しむ様を見ることが、その人たちの喜びとなる。そのような人たちと共存していくには、距離を取るしかない。心の距離が取れないのなら、遠くへ行くしかないのだ。
 
 そんなロジックは承知していても消えないのは、自分がなぜそのような人物に惹かれてしまったのかという自分への不信感だ。自分の人生の責任は自分にある。こんなことになってしまったヒトミさんは、いまひたすらに心の平穏が欲しかった。

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 簡単な夕食を済ませ、ゆっくりとお風呂に入ると、また静寂が訪れる。いまにも壊れそうな心を抱えていると、音のない世界が恐ろしかった。とにかく音が欲しかった。
 そこで、押入れの中で見つけた小さなラジオをつけてチューニングしてみるが、うまく電波を捉えられず、むしろその電波を探すウイーンウイーンという雑音が、ことさら孤独感を増大させてヒトミさんの心を苛む。家中をうろうろしながらため息をつき、そのため息が亡くなった母親の声とそっくりなことに驚き、泣き、泣き疲れ、泣き止み、やっと本の世界へ逃げ込むことに成功し、出来ればこのまま架空の物語の中へワープしてしまいたかったが、本の中では殺人事件が起こっていて、夫を殺した女たちの行動が、ヒトミさんのうっすらとした妄想と重なって、現実との境目が曖昧になりながら眠りに落ちていき、夜半にトイレに起きたとき、もしかしたら私は夫を殺したのだろうかと、ヒトミさんは用を足しながら思ってしまってクスリと笑い、また布団の中へ潜り込む。そしてまた朝が来る。
 
 朝というものは、基本的に気持ちのいいものではなかっただろうか。例え眠くても、例え面倒くさくても。
 朝、見事なまでの絶望感に見舞われるようになってからどれくらい経つだろう。ヒトミさんは、布団の中で考えてみる。この状況から逃れることが出来たなら、いつか爽やかな朝が来ると信じていたけれど、それはいつ? 
 そのいつかが訪れる前に、朝の絶望感が、昼のことも夜のことも支配してしまうのではないだろうか。ヒトミさんの世界が、絶望という名の重く暗い霧に呑み込まれ、歩くこともままならなくなってしまう日が来るかもしれない。
 
 ヒトミさんは、また心療内科へ行くべきかもしれないと思った。結婚生活が始まって数カ月した辺りから、ヒトミさんの自律神経は乱れ始め、眠れぬ日々が続き、心療内科で不安神経症と診断されたが、それはきっと更年期のせいだろうと思ったりして深刻には捉えていなかった。両親の介護や死別という強いストレスもあったけれど、誰もが通る道だからと諦め、眠るときには睡眠薬を使い、夫が帰宅する時間が近づくと安定剤を飲んだ。
 そんなヒトミさんを見て、バカが精神科へ行くんだと吐き捨てる夫にこそ精神科を受診してほしかったが、そんなことを言うとどんな目に合うかわからなかったから黙した。いま思うと、ヒトミさんが消した言葉は、本当は消えていなくて、ヒトミさんの心の穴から五臓六腑に染み出していたのかもしれない。だから常にヒトミさんは体調不良であったのかもしれない。
 
 朝が辛いとうつの始まりだと本で読んでいたヒトミさんは、自分を客観的に見て、もしかしたらうつ状態が始まっているのかもしれないと思った。しかしいま、保険証を使うことは憚られた。いついつどこの病院へかかり、どこの薬局へ行ったという明細が、いつ夫の元へ届けられるかわからない。こんなところにまで探しに来るとは思えないが、ヒトミさんの心に芽生えてしまった恐怖心は、そう簡単に消え去りそうもなかったから、クレジットカードも使わないことに決めていた。
 
 布団の中から、キッチンのテーブルに置かれた開いたままの奈良の地図が見える。奈良には行くべきところがたくさんある。午前九時十五分。昨日のこの時間には、篠田さんと素敵な散歩へ出かけていたことを思い出し、ヒトミさんは勇気を出して、小さな安全地帯のような布団から出る。カーテンを開けると、外はあいにくの曇り空だった。
 
 今にも雨粒が落ちてきそうな空は、ヒトミさんの心をも曇らせた。とりあえず何も考えずに奈良の神社仏閣を回って過ごそうと思っていたヒトミさんだったが、いつか精神科医に言われた言葉を思い出し、深呼吸をした。
「無理に先へ急ぐことはないんですよ、ご自分が楽しいと思うことだけをしてください」
 医師がいつもそう言っていたことを思い出した。

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文章 日向寺美玖
装画 アトリエ藻っくん

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