見出し画像

アップロード、ヒトミさんの場合(20)

心療内科


 ヒトミさんの心身に異変が起きたのは夏が終わる頃で、それは突然やってきた。
 
 ヒトミさんが、二〇一号室の山井さんの部屋を掃除していたとき、一昨日の晩にトイレに行く際に転んでしまったという山井さんが、「美容院に行きたいんだけど、ダメって言うのよ」とヒトミさんに愚痴をこぼした。
 
 話を聞いてみると、転んだときに頭を打っているかもしれないから、しばらくは髪を洗うなと看護師のリーダーに命令されたらしい。確かに身体のことを考えると、そういう結論になるのかもしれないけれど、問題は言い方なのだ。その看護師はいつも、ただ単に権力を誇示するためだけに、偉そうな物言いをする。

 このホームでは、一番偉いのは看護師だ。日勤と夜勤で、必ず一人看護師が常駐し、入居者さんたちの健康管理をしている。
 入居者さんたちに寄り添う優しい看護師もいたが、看護師のリーダーは、認知症のやつらなんて死んでしまえと暴言を吐く男性だった。
 他の看護師たちと違う、まるで医者のような白衣を着て、偉そうに振る舞っているその看護師は、入居者さんたちが病院に行くための許可を出す権限を握っていて、耳が痛いという上野さんの訴えを認知症のせいにして心療内科に送り出し、一度ヒトミさんと揉めたことがあった。

 耳が痛いという人を、なぜ耳鼻科に連れて行かないのか。ヒトミさんは腹を立てたし、その看護師が、あいつはドクターセールするやつだから信用できねえと言ったとき、そもそも入居者さんのことをあいつという品性の無さと、ドクターショッピングのことをドクターセールと何度も言い間違えることに、ヒトミさんは呆れ果てた。
 
 朝礼のとき、ヒトミさんは、出過ぎたことですがと断りつつも上野さんの耳の痛みのことを再三訴え、聞く耳を持っていたスタッフにやっと耳鼻科に連れて行ってもらえた上野さんは、補聴器の不具合によって外耳に傷がついていて、悪意たっぷりに心療内科に送り出した看護師は知らん顔をしていたが、上野さんはさぞや痛かっただろうと、ヒトミさんの心も痛くなった。

 休憩室で他のスタッフとその看護師のことを話題にしても、あの人は施設長と出来てるから何を言っても無駄よと、みな口を揃えて言う。五十代の独身同士がどうなろうと自由だけれど、見過ごせないことはあるのではないかとヒトミさんは思っていたところに、今度は山井さんの件である。

「私は何ともないのよ」と山井さんは言う。
「もう三日も髪を洗ってないのよ」と悲し気に言う。
 美容院に行けないのなら、せめて部屋のお風呂で髪を洗いたのだと、山井さんはヒトミさんに泣きつく。しかしただの掃除婦であるヒトミさんには、洗髪の許可を出す権限はない。
 そのとき件の看護師が巡回にやって来た。山井さんは、髪を洗いたいと懇願した。

「ダメだって言ってんだろ」
 看護師は敬語を使わない。山井さんがヒトミさんの後ろに隠れながらもう一度懇願したので、看護師はヒトミさんを見た。ヒトミさんは何も言わなかったが、瞳に、怒りが宿っていたかもしれない。看護師の態度が急変した。

「だいたいお前は関係ねえだろ、出しゃばり過ぎなんだよ」
 ヒトミさんは口を開く。
「髪を洗ってはいけないというのなら、病院で検査したらいいんじゃないでしょうか」
「はあ?」
 ヒトミさんは口をつぐむ。この男はまるで夫だ。
「おまえ、バカか? それは俺が決めるんだよ。おまえ何様なんだよ、うぜえんだよ、出て行けよ、バカ」
 
 看護師の大声は、山井さんとヒトミさんの心を殴った。山井さんはヒトミさんを守るように部屋から出し、山井さんを心配するヒトミさんに、小さな声で「ごめんね」と言ってから部屋のドアを閉めた。
 
 山井さんの部屋の前で立ち尽くしていたヒトミさんは、自分が泣いていることに気づかなかった。通りかかった介護士に、「どうしたの、大丈夫?」と心配されるまで、流れ落ちる涙の存在に気づかなかった。

 気遣ってくれる介護士に従業員用通路に連れて行かれ、いま起こったことを説明すると、彼女は憤慨し、とりあえずヒトミさんに休憩室に行くように言ってから、彼女は二〇一号室へ入って行った。
 
 ヒトミさんが休憩室でぼんやりしていると、清掃スタッフの同僚が、山井さんの部屋に置いたままだったヒトミさんの掃除用具を持って来てくれて、「大丈夫?」と声を掛けてくれた。すぐに副施設長もやって来て、「もう今日は帰った方がいいわ」と言う。施設長と折り合いの悪い副施設長は、ヒトミさんに優しくしてくれた。

 ヒトミさんは、何も考えずに服を着替え、何も考えずにホームを出て、何も考えずに家に帰った。ごはんを作り、お風呂に入っても、何も考えられなかった。一晩中眠れなかったが、布団の中で横になっていた。

画像1

 翌朝、ヒトミさんは起き上がれなかった。頭痛がひどく、吐き気もした。ホームに欠勤の連絡をし、一日中横になっていた。眠れなかったので、無意識に携帯電話で近くの心療内科を探し、ヒトミさんの中にいるらしいもう一人のヒトミさんが、心療内科を予約した。

 次の日も欠勤し、心療内科を訪ねたヒトミさんは、若い小柄な女性の精神科医から、「何かありましたか」と優しく聞かれ、職場でのことを話した。それから眠れないこと、吐き気がすること、頭が痛くて死にそうなことを話した。
 精神科医は、「診断書を書きますから、とりあえずはしばらく、仕事を休まれてはどうでしょう」と言った。


 ヒトミさんは職場へ足を踏み入れるのが苦痛だったので、徒歩十二分の勤務先に郵送で診断書を送り、声を聞くことが嫌だったけれど、勇気を出して施設長に電話をして、一ヶ月の求職を願い出た。パート社員ではあったけれど、社員と同じように九ヶ月間、週に五日働いて厚生年金も払っていたので、正式に休職が出来た。
 
 一週間後にまた精神科医を訪ねたとき、ヒトミさんは夫のことを話した。精神科医は黙って聞いてくれて、「裁判はいつか終わりますから大丈夫ですよ」と言った。それから、「好きなことは何ですか」と聞いた。ヒトミさんは、自分が何を好きだったのかすぐには思い出せなかったけれど、彼女は、「いまは好きなことだけ、楽しいと思えることだけをしてみてくださいね、もちろん何もしなくてもいいんですよ」と優しく言った。

 処方された抗うつ剤を飲むと、尋常ではない眠気に襲われ、ヒトミさんはこんこんと眠り続けた。トイレに起きたついでに軽く何か食べ、またすぐに眠り、今日が何曜日かわからなくなるくらいに眠っていたが、何も考えずに眠ることが、いまのヒトミさんには必要なことだったのか、十日ほど眠り続けると、少しだけ気分が晴れてきたので、抗うつ剤を飲むのを止めた。

 マチコさんが、針や糸がたくさん入った可愛らしい裁縫箱をプレゼントしてくれた。ヒトミさんには作りたいものがなかったけれど、ふと思いついて、もう捨てようかと悩んでいた古い服を取り出し、気に入って着倒してすり切れてしまった服のかけはぎをしたり、流行遅れのスカートの裾上げをしたり、仕舞い込んでいたセーターを取り出して、伸び切った袖口を丁寧に繕った。それからその勢いで革製品を磨いたり、靴の手入れをしたり、くたびれた服やバッグや靴を再生させることに時間を費やした。

 ヒトミさんは一日中、取り憑かれたようにチクチクと何かを縫っていて、やがて服を全部再生し終えると、今度はもう着ない着物類を取り出して、ぶちぶちと古い糸を切り、反物の状態に戻してから洗濯し、小物入れやバッグを作り始める。
 
 マチコさんが笑いながら、「お店屋さんが出来ますね」と言うので、我に返って顔を上げると、日曜日の夜だったりする。
 ヒトミさんは一ヶ月、針仕事をして過ごした。
 心療内科で、もう一度診断書をもらってからホームに提出し、まだしばらく復職出来ない旨を伝えた。

オレンジ〇

「旅行は好きですか」
 精神科医からそう聞かれた翌日、転送されて海辺の家に配達される郵便物の中から、溜まったマイルの有効期限がもうすぐ切れますよという航空会社からのお知らせを見つけた。ヒトミさんは、ああ、父が亡くなってからもうすぐ三年になるのかと気がついた。何度も九州に通っていたヒトミさんのマイルは結構あった。ヒトミさんはすぐにマイルでチケットを予約した。

 仕事のことも裁判のことも、ヒトミさんにはもうどうでもよかった。何もかもどうでもよくなったヒトミさんは、九州へ向かっている台風の進路だけを気にしながら、一週間後、台風一過の九州に降り立った。


文章 日向寺美玖
装画 アトリエ藻っくん

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?