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「音楽」は絶対に私を裏切らなかったから続けてこれたのかもしれない、と気づいた話

今日のテーマは、私が生きていくのに絶対に必要だった、と思える「音楽」の話。

どんな私にも、どんな感情があふれ出しても、「音楽」だけは、全部受けとめてくれてたんだな、と思えるようにいつの間にか、なっていたんだ、と気づいたことを思い出しながら書いてみようかと思います。

私は4才の頃から、音楽の教育を受けている。多分、自分の意志で始めた。…とはいえ、その少し前に同級生が始めて、自分もやってみたい!というわがままからのスタート。

ひとりっ子であったこと、その当時、比較的我が家は経済的に余裕があったこと、同時期に同級生が始めていたこと等、好条件が揃ったからこそ、始められたのではないかと思う。

そして、この経験が、私のこの耳を育て、「音楽」があれば生きていける私にしてくれたんだと今では、思うのだ。


「音楽」を楽しめる耳…『聴力の高さ』

私は多少、「耳」が良い。自覚をするようになったのは多分小学生の時だと思う。両親よりも耳の聴こえがいい、と思えたエピソードがある。

私には、電話の時に、聴こえる音がある。…我が家の固定電話、だけにいえるのか、わからないのだが…私は電話が『かかってくる瞬間』が分かる。

ナンバーディスプレイを利用しているが、通電音…?ピカッと光る…多分、その瞬間、「カチカチカチ」という音が聴こえる。そしてこの音は、両親には聴こえていない、らしい。

これを自覚した時に、どうやら自分は「地獄耳」らしいな…と思い始めた。


「音楽」を楽しめる耳…『音の記憶力』

私には、歌以外に、人にある程度自慢できる特技として、「イントロクイズ」がある。

某ドレミファドン!のようなものを見てるとき、それは発揮される。知ってる曲によっては出演者より早く答えられる物も。

たしかにいろんな曲を聴いてもいるし、有名な曲は古い曲であっても音楽番組などで聞く機会があるからか、多分そんなタイミングで曲の音を覚えてしまっているらしい。

あとは、CMソング、サウンドロゴ、など音楽を絡めてあるセリフなどは、比較的すぐに覚えてしまう。

歌は覚えられるが、セリフや話は覚えられない…完全に「音楽」として、覚えられるものにしか、この記憶力は適応されない。

…まあ、ごく一部例外もあるが、それはかなり条件がキツイようなので、割愛する。


音楽を楽しめる耳…『音感』

幼い頃から音楽に触れているからなのか、私にはざっくりとした「相対音感」があるらしい。

相対音感は、かんたんに言うと一度鳴らされた音とその後に鳴らされる音の高低差がわかる程度の音感のこと。基準の音が与えられたら、その次の音が音階のどの音にあたるかがたいてい、当てられる。

これが存分に発揮されたのかどうなのか、それは少しわからないが、人の歌になんとなく「ハモる」音が私にはわかる。これは、「アカペラ」経験がくれた大事な私の能力だ。


音楽を楽しめる耳…『感受性』

一言でいえば、『感度がいい』…音から、感情とか、圧とか、揺らぎとか…そういうのを感じ取ってしまう。これはデメリットもかなりある性質なのだが…使いどころを誤らなければ、人とは違う感覚で「音」を楽しめる。


で、結局、音楽があれば生きていけた、とは

ここまでいくつかの私の耳の持つ性質を上げてきたが、結論を言うと、「音楽」に人以上に満たされることができるから、なんだろうと思う。

人が気づけないものに気づく、人よりも「音」の力を受け取る、…それらに心、動かされる。満たされる。刺激される。

私にはこの「耳」があれば、自分の心地よい音がわかる。それ以外の音は気にしなくてもいい場合が多いが、私の場合、無意識にダメージを受ける音も存在する。

…残念ながら、私の場合は、それが自分の家庭内にも多数存在する。

今でこそそう思えるが、少し前まではそれを「違和感」としか思ってなかった。が、精神的に徹底的に叩きのめされてた時期を乗り越えてから、確信に変わった…なので今この瞬間もイヤホンをして家の一角に閉じこもっている。


人から発せられる「音」は簡単に私を裏切る

…誤解をしないでほしいのだが、私自身が穏やかに過ごしていたとしても、周りの人の声のトーンがちょっと変わるだけでも、ダメージを受けてしまうだけであって、けっして誰かが、私を裏切るわけではない。

ただ、残念なことに、「音」に安心感が持てなくなると、もう、駄目になってしまうのだ。

どう駄目になるか、というと、心がざわつく。精神的になぜか追い詰められるような気がしてくる。

例えば、時計の針の音だけが聴こえる環境、断続的に続く太鼓の音、ピーンという高い音の耳鳴り…一瞬聴こえるものなら、怯むだけで済むのだが、これが延々と続くとどうにも駄目らしい。

ここ数年で自分の耳の「厄介さ」が浮き彫りになってきたので、今はそんな状況を徹底的に、避けている…

そんなわけで、逃げ道になったのが、「音楽」…収録されたものを聴き続けるということである。でも最近は、好きなタイプの声のことが多い。

…どうやら私は人の声を聴いて安心していたいらしい。

それが、家族の声だったらよかったのに、残念ながら、家族の声では満たされない。…どうかすると無意識に削られる…

音楽さえ聴けないときは、もっぱら心が落ち着く声だ。この声で、心の中のぐちゃぐちゃしたものが、刺激され涙が溢れてくることもしばしば。むしろ、こんなふうに心を刺激されないと、普段から、泣けない。

なので、もう意識的に声を聴いて、泣くようにしている。

そんな毎日を送っているからなのか、「音楽」がないと生きていけなくなってしまったのだ。「音楽」に依存傾向…この耳がどうやらそうでないと、生活に耐えられなくなっている。


泣き方が少し「特殊」なことで困ってきた過去

この耳の性質に気づくまでは、私は数カ月に一度、「決壊」していた。

些細なきっかけで涙が止まらなくなる、それを「決壊」と表現しているが、こうなると泣きやみ方がわからず泣き暮れる。酷いと過呼吸にもなってしまう。

…悲しいことに職場でやらかしてしまったこともある。…完全に先輩方に非はないのだが、こればかりは、『運が悪かった』としか言いようがない。

…このとき、私自身、『そろそろヤバイかもしれない』を自覚していただけに、少し悔しい思い出だ。

あそこでなんとか、踏みとどまれなかったんだろうか…そんなことを考えてしまうほどに、あの出来事で私は「泣けない私の決壊の恐ろしさ」を感じてしまったため、私は今は意識的に「涙活」をするようにしている。

…だから多くの場合、感動以外では泣かなくなった。いや…泣けなくなった、のほうがもしかしたら正しいかもしれない…。

泣きたいときに泣けない、が今だに頻繁に襲ってくるが、「好きなタイプの声」で泣ける、特に心の中のぐちゃぐちゃしたものを刺激してくれるものだと泣けると学習したため、どうやって泣けばいいかだけは、困らなくなった。私にとって泣きネタって大事なんだな、と最近は強く感じている。

そんなわけで、わたしは人のようにその時の気分で裏切られない「音楽」に心を救われ続けていたのかもしれなかった。

自伝的過去記事
『「人の痛みがわかる人に」と願った話』
一緒に読んでもらえると、
私が辛かったときに、音楽がどのように
作用したか、も少し伝わるかもしれない。
固定記事から読めるのでそちらも是非。

というわけで、好評いただいている「音楽」の話、でした。本当に「音楽」のない生活はもう、考えられない。さらにいえば、「好きな音楽」に触れられない生活には耐えられないです!!

最初の方にも書いているんですが、両親に聞こえない音が聴こえる…ことで「音楽」が楽しめるのは、残念ながら、家族内だと私だけなんですよ!!親よりも私は「音楽」に心開いてると思うよ…

まあ、父も好きなんですが、母は違うんですよね…どちらも最新の曲などは「聴きにくい」そうなんです。まあ、年齢もあるんだろうけど、「音楽」の力をあまり信じられないようなので、ここの大事な価値観が違うようです。

…あとは、受け付けない音楽が多少なりともあるんじゃないでしょうか。私はクラッシックから入ってるから割と何でもござれ、な感じなんでしょうね。

同居するのは、少しばかり、考えなきゃいけないと本気で思ってます…(現在は実家ぐらしです)
ひとり暮らし、してたんですけどね…
実は就職した後にもしてたんですけどね…

そのあたりも、時期が来たらちゃんと、話そうと思いますが、かなり特定が怖い話になってしまいますので、多分、お話できるようになるのは、かなり先になりそうです…

この話には、眠らせてる活動名義の話も書かなきゃいけなくなってしまうので、覚悟が必要…

でも、いつかは、自分の為にも、書きます。そこまでnote続けられたらいいな…、頑張ります。


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このnoteでは、私の経験を通して、なんとなく掴んできた、自分の心をラクにする『好きを大切にする』生き方を、話しています。

ゆるゆると発信を続けていくので、読んでみようかな、と言う方は、よければ、フォローしてもらえたら嬉しいです。

そんなわけで、本日はここまでです。

ここまで読んでいただき、
ありがとうございました。




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